高城/宮崎県木城町 | なぽのブログ

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お休みヒマだ~、どこ行こう?
・・・そうだ、お城!で始まった城跡巡り。
ふらっと訪ねた城跡を紹介します。


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高城は伊東四十八城の1つで、歴史の大きな舞台となったお城です。
訪問日は2018年2月12日です。

日向には3つの「高城」があり、「日向三高城」と呼ばれていました。
ココは新納院の高城で、他は三俣院の月山日和城、穆佐院の穆佐城です。

【写01】高城

11年前の夏、ここに来た事がありました。
当時はメロディー時計台の建物だけ見て帰ってしまいました。
あれから歳月が流れ、今度来たら堀切群を見よう!と心に誓ったのでした。
その1本目は、城跡の入口のココにあります。
写真では、右の道端に標柱が立っている所です。

【写02】高城

ここには第七空堀があります。
ただ「どこだ?」なんて見回しても、全くそれらしき物は見えず。
それでも、堀切がここであることを示す標柱は立っています。
もしや、まさか、の、まさかですが・・・

【写03】高城

「もしかして?」で真後ろの藪に突入すると、すぐ目の前にありましたラブラブ
標柱を立てるなら、その周りくらいは草刈りして欲しいですよねクローバー

【写04】高城
空堀分布図を拡大表示

さて、標柱には7本の空堀の位置を示す図が描かれています。
せっかくなので、載せちゃいます。
本当は実物と同じ縦アングルが良いのかもしれませんが・・・
御覧になるときは、首を90度右に傾けると見やすくなるかもしれませんあせるあせるあせる

【写05】高城

最初が第七なので、次は第六の空堀です。
場所は駐車場入口周辺です。
ゲートの脇に例の標柱が立っていますが・・・
全面アスファルトに覆われており、ここは堀らしさを感じられません。

【写06】高城
城山公園の案内図

駐車場の奥に、城山公園の案内図があります。
城巡りの必需品なので、しっかり載せておきます♪

【写07】高城

次の第五空堀は、図では水分神社の奥に描かれています。
ココより手前には無いんだと、堀の見落としを心配せずに進めます。

【写08】高城

神社から先は、道1本分の細尾根となります。
その所々にこんな感じで橋っぽい所が見られるようになります。
これが堀切の目印となります。
この橋っぽいのは、橋というよりもガードレール代わりのようです。

【写09】高城

ここから道の脇を見ると、ちょっと何となく窪んでいるように見えます。
ただ、何も目印が無い状態で通ると、私なら間違いなく見落とします。

【写10】高城

実は、これが高城の連続堀切です。
その脇には、例の標柱がもれなく立っています。

【写11】高城

こんな感じで第四

【写12】高城

第三

【写13】高城

第二と、10メートル前後間隔で堀切が続きます。

【写14】高城

その先は再び広くなり、公園に辿り着きます。
公園の手前にも全面舗装の駐車場があり、ここも曲輪だったと思います。
せっかくなので、端に寄って広く撮りました。

【写15】高城
説明板を拡大表示

この駐車場に、高城の説明板があります。
タイトルが「高城城跡」とあるので、本当は高城城でしょうか?
世の中には「城城」というお城もあるので、そうなのかもしれません。
そういえば、地名がお城由来の都城もそんな感じですねw

【写16】高城

駐車場と公園は、ほんの少しですが段差があります。
パッと見では普通にただの段差のように見えますが・・・
奥に見えちゃいましたよね?

【写17】高城

実は、公園のすぐ手前が最後の第一空堀の跡です。
なので、この段差は本来、公園となった主郭の城塁だったのです。
第一空堀は階段が付けられ、下から登って来れるようになっています。

【写18】高城

ここまでにあった第二~第七の堀と比べると、格段に規模が大きいですラブラブ

【写19】高城

そして、主郭跡の公園です。
入口にはお約束の遊具がありますが、右奥に建物が見えます。
これが高城のシンボルであるメロディー時計台です。
時計は、公園の中心側の面に1つあります。

【写20】高城

デザイン的には模擬天守というより「模擬太鼓櫓」な感じがします。
太鼓櫓は時を知らせたりするものなので、役割的には合っています。
大きなスピーカーが付いており、防災無線も兼ねているようです。

【写21】高城

公園の一番奥にも、下に降りる道が付けられています。
ここはそれっぽく見えませんが、虎口があったのでしょうか?

【写22】高城

この下には、こんな感じの腰曲輪が2、3段ありました。

【写23】高城

下りの階段の左側には、かなり長い帯曲輪が見えます。
手前に倒木がありますが、いつもの事なので乗り越えて奥へ進んでみました。

【写24】高城

すると、上の主郭に沿ってずっと囲むように続いていました。
何となく雰囲気は掴めたので、散策はここまでにしました。


◆歴史◆

高城は新納院の中心だった城と考えられています。
そのため高城に限らず、新納院の出来事も一緒に拾ってみました。

平安時代は中原親能の領地でした。

中原親能は京の公卿で、大江広元とは義理の兄弟だったようです。
源氏と平家が争った頃は、源頼朝と公家の間を取り持ち出世しました。
中原親能は日向には下向せず、現地の支配は日下部氏が担っていました。

1187年、土持氏の領地となりました。

土持栄紗が日下部盛平の養嗣子となり、所領と官職を譲渡されました。
これにより、宇佐八幡宮領と合わせて日向の最大勢力となります。
土持氏は土持栄紗の子・土持景綱が財部、土持通綱が縣を継承。
清水、都於郡、大塚、瓜生野、飫肥にも一族が入り、土持七頭と呼ばれました。

鎌倉時代は・・・

サッパリわかりませんあせるあせるあせる
平安時代には土持氏が日向のほぼ全土を支配していたはずなのですが・・・
南北朝時代には、別の家の領地として登場したりします。
新納院も、1335年に島津貞久の弟・新納時久が地頭に任命されています。
鎌倉時代の日向は、比企能員事件後は赤橋流の北条氏が守護でした。
※1203年の比企能員事件で島津忠久が連座し、三州の守護職を剥奪されました
 1213年の和田合戦後に薩摩守護に復帰しましたが、日向はそのままです

足利尊氏は赤橋氏から正室を迎えており、その領地保全に奔走しています。
そのため、土持氏の領地の大部分を赤橋氏が奪っていたのかもしれません。

1335年、島津氏の城となりました。

島津忠宗の四男・時久が新納院の地頭に任じられ、高城に入りました。
任命するのは足利尊氏なので、新納院は赤橋氏の領地だったかもしれません。
この時、任地の地名をとって新納時久と名を改めています。

1350年、畠山直顕に攻め落とされました。

観応の擾乱が始まると、畠山直顕と島津貞久が争うようになりました。
新納時久は兄・島津貞久に従って日向守護・畠山直顕と戦ったと思われます。
高城を攻め落とされた新納時久は、前年に与えられた志布志へ移りました。

1357年、土持貞綱が新納院の地頭となりました。

日向守護の一色範親が、土持貞綱を新納院の地頭に任命しました。
この頃の土持氏は、畠山直顕ではなく一色範親に従っていたようです。
畠山直顕はまだ日向にいましたが、地頭に任命したのは一色範親だからです。
ただ、畠山氏も一色氏も、南朝方に敗れて数年の内に日向を去っています。

1457年、伊東祐堯の城となりました。

伊東氏はそれまで土持氏とは協力関係にありました。
しかし、伊東祐堯が日向守護職を望むようになり、土持氏が猛反発。
縣と財部の土持氏が、伊東氏に対し挙兵しました。
その結果、財部土持氏は壊滅的敗北を喫し、伊東氏に降伏。
わずか30町ばかりの捨扶持を残し、財部土持氏は領地を奪われました。
高城には伊東家臣・野村蔵人が城主として入りました。

1578年、島津家の城となりました。

1577年12月、島津軍が日向に侵攻し、伊東家臣が相次いで寝返りました。
そのため、伊東義祐は豊後に落ち延びる決断をし、日向を去りました。
高城には島津家臣・山田有信が城主として入りました。

豊後に落ち延びた伊東義祐は、大友宗麟に日向奪還の出兵を懇願。
大友家中では反対派が多かったものの、大友宗麟は日向へ出陣しました。
総勢5万の大友軍は縣土持氏を滅ぼし、高城に攻め寄せました。
山田有信は大友軍をよく防ぎ、11月に島津軍本隊が到着。
11月12日に高城のすぐ南東で決戦が行われ、島津軍が大勝しました。

1587年、豊臣秀長軍に包囲されました。

その後、島津軍は九州を北上し、ほぼ全域を制圧する勢いでした。
これに対し、劣勢を強いられた大友宗麟が、豊臣秀吉に援軍を要請。
豊臣秀吉は30万の大軍で、島津家討伐のため出陣しました。
豊臣軍は豊臣秀吉が筑後→肥後、豊臣秀長が豊後→日向と侵攻。
4月2日に高城が豊臣軍に包囲されました。
島津軍は高城を救援しようとしたものの、白根坂で敗退。
本隊は薩摩へ撤退し、4月21日、島津義久は降伏しました。
高城は豊臣軍に包囲されはしたものの、落城はしませんでした。
4月29日、山田有信は城を退去し、豊臣家臣の宮部継潤が入城しました。

その後の国割で、高城は島津家とともに戦った秋月種実の城となりました。
秋月氏は、筑後36万石から3万石への大幅減封で日向に移っています。

1615年、一国一城令により廃城となりました。


所在地:宮崎県児湯郡木城町高城

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