延岡城/宮崎県延岡市 | なぽのブログ

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お休みヒマだ~、どこ行こう?
・・・そうだ、お城!で始まった城跡巡り。
ふらっと訪ねた城跡を紹介します。


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延岡城は続日本100名城に選出された、総石垣のお城です。
訪問日は2018年2月11日です。

【写01】延岡城

城跡の北側にある城山公園の駐車場です。
この日は延岡西日本マラソンがあり、ちょっとヤバい状況でした。
マラソンで通れなくなる所があると、時間を大幅にロスしますので。
事前にお祭りなどの大きな行事は要チェックだと思い知らされました。
プロ野球のキャンプの影響で、急遽宮崎北部に変更したんですけどねあせる
普段は有料なのですが、この日は特別に無料。
これもマラソン効果なのかもしれません。

【写02】延岡城

駐車場の脇に、いきなり石垣があります。
なぜかというと、駐車場は内堀だった所だからです。
崩されなかっただけ良かったのでしょうか?

【写03】延岡城

駐車場から見て左前方にある石垣です。
結構立派ですが、原型を留めてはいないようです。
ここが元々どんな形だったのか、ちょっと想像がつきません。

【写04】延岡城

駐車場から見て右側(西側)には、真新しい駐車場が出来ていました。
城山公園の駐車場を拡張したばかりのようで、まだ開放前でした。
その端には、これまた真新しい幟がはためいていました。

【写05】延岡城

続日本100名城に選ばれた記念の幟でした。
絵柄が梵鐘だなんて、ちょっとディープですw
佐土原城にもありましたし、全国的に設置されたのでしょうか。
スタンプはまだですが、幟を撮って回るのも面白いかもしれません。

【写06】延岡城

舗装具合が出来立てほやほやなのですが、その脇に内堀跡の標柱があります。
内堀の跡だとわかってるなら、やるべき事は駐車場じゃないと思います。
今ある駐車場でさえガラガラですからw

【写07】延岡城

特に案内は無かったのですが、幟に釣られて城内へ入る道を見つけました。
その道の奥にあるのが、北大手門です。
最近補修した跡がありますね合格

【写08】延岡城
説明板説明板の図

北大手門をくぐると、真正面に真新しい説明板があります。
最近設置されたのかと思ったら、8年前の平成22年でしたけどw
説明板の絵図は、立ち位置に合わせて南が上になっています。

【写09】延岡城

それより何より、北大手門の外からも存在感を放っていたのがこの石垣です。
これが延岡城一番の見どころである、千人殺しの石垣です。
要となる石を1つ外すと崩れて、敵を埋め尽くすのがその名の由来ですが…
その石をどうやって外すのかが?????です。
この石垣を崩して敵を埋めるなら、外す石も下にあるはず。
そんな「どうやって?」を考えながら見て回るのも、城巡りの楽しみです。

【写10】延岡城

千人殺しの石垣の前には、かなり広い曲輪があります。
ここが二の丸です。
その端っこにある建物が「二の丸広場管理事務所」です。
4月6日以降は、この建物の前にスタンプが設置される予定です。
「もうあるかな?」と探してみましたが、まだありませんでしたショボーン

【写11】延岡城

二の丸の端から見た~の石垣です。
エジプトのピラミッドも凄いですけど、日本の石垣もなかなかです。
ピラミッドは見たことありませんけどw

【写12】延岡城

二の丸の南側は、こんな感じの土の壁で遮られています。
巨大土塁のように見えますが、そうなのかもしれません。
この上には二階櫓がありました。
二の丸まで攻め込まれた時に、上から一斉射撃する構造でしょうか?

【写13】延岡城

二の丸から外側を見ると、周りはビッシリと住宅で囲まれています。
その中でポツリポツリと高台が島のように点在しています。
これも城に関係する構造物だったのでしょうか。

【写14】延岡城

二の丸の足元も、やっぱり凄い石垣になっています。
すぐそばまで住宅が迫っていますが、もともとは堀だったんでしょうね。
そんな中で、よく崩されずに残ったもんだと感心しました。

【写15】延岡城

二階櫓の石垣です。
半分は金網で覆われ、通路は通行禁止となっていました。
崩れないように頑張ってほしいもんです。

【写16】延岡城

二の丸から二階櫓の石垣の脇を通ると、遊具広場があります。
説明板の古図には描かれていないので、もしかしたら隠し曲輪だったのかも。
しかし、ここまで遊びにくる健全なガキンチョお子様がいるのでしょうか?

【写17】延岡城

下はひと通り見て回ったので、~の石垣脇の階段から上がります。
この通路、元々あったとしてもこんな綺麗じゃなかったと思います。
お城の石段は、一段一段が高くて高さもまちまちな所が殆どです。
そうやって、敵が一気に駆け上がれない工夫がされているものです。

【写18】延岡城

石段を上がりきった所から見た、二階櫓の跡地です。
下の二の丸からは、巨大土塁に見えた土盛りの上です。

【写20】延岡城

石段から左側が本丸です。
登り切ってもいきなり入れる訳ではなく・・・

【写21】延岡城

桝形虎口を通らなければ入れません。
立っている標柱には「二階門櫓跡」と書かれていました。
どんな門があったのか、色々勝手に想像しちゃいます口笛

【写22】延岡城

虎口はやっぱり両側から堪能しますよね?

【写23】延岡城

本丸には誰かの銅像が立っています。
同じ帽子をかぶった人を鹿児島でも見かけましたが・・・
この人物は延岡藩最後の藩主・内藤政挙です。
ググってみると写真が載っており、そっくりです。
そりゃそうですけどw

【写24】延岡城

銅像の視線の先に見えるのが天守台です。

【写26】延岡城

山城だったら、天守台が主郭で本丸が二郭になりそうです。
規模がデカイと、天守台は本丸の中の一部という扱いになるんですね。

【写27】延岡城

天守台から下りて周りの道を通ると、すぐ下に帯曲輪がありました。

【写28】延岡城

そのまま道を辿ると、またまた石垣が見えてきました。
この石垣は三階櫓のあった所です。
すぐ眼下には延岡市役所が見え、お城の象徴だったかもしれません。
石垣に乗っかる白亜の櫓が見えたら、城キチならずとも見入ってしまう筈です。

【写29】延岡城

道をそのまま進むと少し下り、広い場所に出ます。
ここが三の丸です。
三の丸からも三階櫓跡の石垣がよく見えます。

【写30】延岡城

三の丸の東側、三階櫓の真下には、石御門がありました。
写真の右の真上が三階櫓跡です。
ここから市役所の脇に下りる道があります。

【写31】延岡城

石御門からは下りず、再び城内側へ進みます。
すると、今度は北側に石垣に支えられた広い場所に出ます。
パンフでは「牧水歌碑広場」と書かれており、曲輪の名前が?ですあせる
延岡周辺では、本当に沢山の「牧水~」を見かけます。

【写32】延岡城

牧水歌碑広場の前を通り過ぎると、北大手門から上がってきた所に戻ります。
右も左も正面も石垣の風景。
夢に出てきそうです爆  笑


◆歴史◆

1603年、高橋元種により築かれました。

1587年にあった豊臣秀吉の九州征伐後、縣は高橋元種の領地となりました。
(「縣」は延岡の旧名です)
高橋元種は、前の領主・土持氏の松尾城をそのまま居城としていました。
1600年の関ヶ原の戦では、高橋元種は西軍に属していました。
しかし、本戦で東軍が勝つと、兄とともに大垣城で東軍に寝返りました。
これがギリギリセーフで、戦後も改易されずに領地を安堵されています。
同じく駆け込みで寝返った伊東祐兵には、宮崎城を攻められましたけどあせる
みんな生き残るのに精いっぱいだったんですね。

戦から帰った高橋元種は、新たに総石垣の城を築きました。
これが縣城で、後の延岡城です。
城だけでなく城下町の整備にも着手し、これが現在の延岡の基盤となりました。

1613年、高橋元種が改易されました。

高橋元種が罪人である坂崎左衛門を匿ったとして改易されました。
結構ややこしいのでザックリ書くと・・・
・1605年、坂崎左衛門が坂崎直盛の婢と密通
・坂崎直盛が家臣に婢を斬らせた
・逆切れした坂崎左衛門がこの家臣を殺した
・坂崎直盛が激怒
・坂崎直盛の姉・富田信高夫人が、甥の坂崎左衛門を匿う
・坂崎直盛が富田信高の安濃津城へ押しかける
・居留守で門前払いしたため、坂崎直盛が更に激怒
・坂崎直盛が徳川家康に訴えたが、隠居を理由に取り合ってもらえず
・1608年、富田信高が伊予へ加増移封
・坂崎左衛門はこの機に高橋元種のもとに身を寄せた
・1613年、富田信高夫人が坂崎左衛門に送った手紙が坂崎直盛の手に渡る
・坂崎左衛門が徳川秀忠に訴える
・富田信高、高橋元種らが改易され、坂崎左衛門は処刑された
こんな感じです。
高橋元種は陸奥国棚倉の立花宗茂預かりの身となり、同地で没しました。

1614年、有馬直純が城主となりました。

有馬直純は肥前の大名・有馬晴純の子です。
父・有馬晴純は1613年、岡本大八事件に連座して改易されました。
しかし、有馬直純は徳川家康の小姓だったことで罪を免れ、家督を継ぎました。
その後、禁教令に従わない異母弟を殺しますが・・・
良心の呵責に苛まれ、徳川家康に転封したいと申し出ていました。
有馬直純は1637年、旧領で起きた島原の乱で活躍しました。
もちろん、幕府側としてですけどw

1656年、延岡城に改名

有馬直純の子・有馬康純が、縣城改修を記念して延岡と改名したようです。
この年に今山八幡宮に寄進した梵鐘に「延岡城主」と彫られています。
ただ、正式な文書に登場するのは、三浦明敬が藩主となってからです。

1692年、三浦明敬が藩主となりました。

有馬康純の子・有馬清純の代の1690年、山陰・坪谷村一揆が起きました。
これは過剰な年貢取り立てに農民がキレ、村人全員が逃散した事件です。
西城にあった逃散の碑は、この事件のものだったんですねw
この一揆により、有馬清純は無城大名に格下げの上、越後へ移されました。

代わって下野から来た三浦明敬が藩主となりました。
三浦明敬は一揆の後始末で苦労したのですが、藩政の立て直しに尽力しました。
この功績が認められ、1712年に三河刈谷へ移されました。

その後、牧野氏、内藤氏が城主となりました。

江戸時代の事ってあんまり興味ないですよね?w
1712年に牧野成央が藩主となり、子の牧野貞通が常陸へ移封
1747年に内藤政樹が藩主となり、8代続いて明治時代を迎えました。
内藤氏は磐城平出身で、映画『超高速参勤交代』の舞台となった所です。
映画の主人公・内藤政醇は分家の当主で、1741年に没しています。
・・・延岡と関係ない方向に走ってしまいましたあせる

1870年、廃城となりました。

最後の藩主が、本丸に銅像のあった内藤政挙です。
内藤政挙は1869年、版籍奉還により延岡藩知事となりました。
その翌年、延岡城を薬園にするとして、廃城が認められました。
内藤政挙は延岡大火や西南戦争で荒れた延岡の復興に尽力。
学校の整備や、旭化成の前身・延岡電気所設立などで貢献しました。
これだけの事をすれば、地元から感謝されて銅像も立ちますよねw


所在地:宮崎県延岡市本小路

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