佐土原城/宮崎市 | なぽのブログ

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お休みヒマだ~、どこ行こう?
・・・そうだ、お城!で始まった城跡巡り。
ふらっと訪ねた城跡を紹介します。


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佐土原城は伊東四十八城の1つで、伊東義祐の居城でした。
訪問日は2018年2月12日です。

【写1】佐土原城

国道沿いにある大きな駐車場から見た鶴松館です。
鶴松館は江戸時代に藩主が暮らした館で、1993年に復元されました。

【写2】佐土原城

その周りに沢山あった青い幟です。
続日本百名城に選出された記念のようです。
スタンプラリーが4月6日に始まるので、もうあるかと思いましたが…
まだでしたガーン
いいんです、また来ますからw

【写4】佐土原城

門の中にある復元された御殿です。
今では御殿の貴重さがわかるので、この形の建物を見るとラブになります。
しかし、10年前の夏は「なんだ、このお寺?」なんて思ってました。
…ひよっ子とはいえ、バチ当たりですあせるあせるあせる

【写5】佐土原城

内部を見る予定ではありませんでしたが…
ちょっとだけサラッと見て来ました。
玄関に飾られたこの額が、ちょっと誇らしげに見えました^^

【写6】佐土原城

さて、今回のお目当ては山城部分です。
前回は全く見ていませんでした。
鶴松館の前に、ひっそり案内が置かれています。
この矢印に従って、御殿の裏へ回り込みました。

【写7】佐土原城

すると、今度はもうちょっとわかりやすい案内がありました合格

【写8】佐土原城

その先には、堀のような、虎口のような道がありました。

【写9】佐土原城

堀のような虎口のような道を抜けると、またしても切通状の道が続きます。
この足元にある説明板的なモニュメントには「登城路」と書かれていました。
…まぁそうですけどw

【写10】佐土原城

佐土原城の特徴は、この切通状の「登城路」がかなり長い事です。
地図上で測ると、だいたい250メートル程ありました。
その切通状の登城路を抜けると、何やら案内がありました。
手前の案内は「←松尾丸へ徒歩10分」と書かれています。
…松尾丸は佐土原城の原点なので、後でじっくり見て来ました。
まずはこの先にある主郭を目指します。
すでに前に見えていますが、案内の向こう側にあるのが虎口です。
入口がこんなに厳重なお城はかなり珍しいと思います。

【写12】佐土原城

虎口のすぐ先に、かなり開けた曲輪ありました。
私はここが主郭かと思いましたが…

【写13】佐土原城

この曲輪の奥に、さらに案内があります。

【写14】佐土原城

この案内の先には、掘り下げた感じの山道が100メートル程続きます。

【写15】佐土原城

この掘り下げた感じの道が直角に曲がっています。
ここが主郭の枡形虎口です。

【写16】佐土原城

その先に、真ん中に白い標柱の立っている広い曲輪があります。
ここが主郭です。

【写17】佐土原城

主郭は、瓢箪のように真ん中でくびれた2つの空間から成り立っています。
奥の方にも白い標柱が見えます。
何だろう?と近づいてみると…

【写18】佐土原城

天守台跡でした合格
破壊されていたようですが、足元だけ残っていたようです。
1辺5メートル程なので、あったとしたら丸亀城サイズの天守でしょうか?

【写19】佐土原城

主郭を見た後は手前に戻り、今度は「南之城」を見て来ました。
入口は、目の前に城塁が迫る虎口となっています。
この光景、宮崎城の主郭の入口とよく似ています。
南之城を構築している時の仮住まいが宮崎城でしたからね。
そりゃぁ、似ている部分もあるのかと思います。

【写20】佐土原城

上がった曲輪内部は、まぁ広いですラブラブ

【写21】佐土原城

最後は松尾城です。
南之城手前の虎口脇から細道へ入ります。
徒歩10分と書かれている通り、まぁ結構距離ありましたw

【写22】佐土原城

なので、途中にこんな感じの所もあります。

【写23】佐土原城

土橋状の細い所を通り抜けると…

【写24】佐土原城

フィニッシュ!
ここが佐土原城の前身である、田島城の主郭です。
南北朝時代はじめに築かれただけあって、ここだけだとかなりシンプルです。


◆歴史◆

14世紀半ば、田島休助により田島城が築かれました。

13世紀半ばに伊東祐時の4男・祐明が日向に下向しました。
伊東祐明は田島庄に入ると、田島姓を名乗るようになりました。
1335年、伊東本家の伊東祐持が都於郡に下向して来ました。
伊東祐持は、先に土着していた伊東一族を従えようとしました。
しかし、田島氏はこれに反発し、軍事拠点として田島城を築きました。
田島城は、現在の松尾城の位置だったと考えられています。

1427年、佐土原氏の城になりました。

田島休助には後継者がいなかったため、娘婿を迎えることとなりました。
その養子となったのが後の伊東家当主・伊東祐堯の弟・伊東祐賀でした。
しかし、その婚儀の直前に田島休助が急死。
すると、田島一族を小さな城に押し込めてしまいました。
田島城を乗っ取った伊藤祐賀は、佐土原姓を名乗るようになりました。

1480年、伊東宗家の本拠地となりました。

伊東家当主・伊東祐堯の嫡男・祐国が、佐土原氏の養子となりました。
伊東祐国はその後も伊東姓を名乗り続け、1485年に家督を継ぎました。
しかしその翌年、新納忠続の飫肥城を攻めた際に討死してしまいます。

1536年、佐土原城が焼失しました。

1523年に伊東尹祐が没した後、伊東家では当主がめまぐるしく代わりました。
はじめは伊東尹祐の嫡男・祐充が継ぎましたが、1533年に病死。
すると、伊東尹祐の弟・祐武が台頭しましたが、反対派の家臣と争い討死。
この時の戦乱で、都於郡城が焼失したと思われます。
伊東祐武を討った有力家臣・荒武三省も、間もなく戦死しました。
すると、次の男子・伊東祐清を飛ばしてその弟・祐吉が家督を継ぎましたが…
わずか3年で没し、残った伊藤祐清が家督を継ぎました。
この伊東祐清が、後に伊東氏の最盛期を築き上げた伊東義祐です。
家督を継いだ伊東祐清は佐土原城に入りましたが、その年の年末に焼失。

1543年、佐土原城の改修が完了しました。

佐土原城を改修する間、伊東祐清は宮崎城を居城としました。
その間の1537年、足利義晴から一字拝領し、伊東義祐と改名しました。
それまでの佐土原城の構造は、築城当時の田島城のままでしたが・・・
この改修で南之城を主郭として、山全体を使った本格的な山城になりました。

1577年、島津家の城になりました。

伊東義祐は1554年に都於郡城に本拠を移し、佐土原城には城代を置きました。
しかし、1560年に家督を伊東義益に譲ると、佐土原城を隠居城としました。
伊東義祐はその後も実権を握り続け、島津家の飫肥城を攻め続けました。
そして1568年、100年以上争奪戦を続けた飫肥城をついに手に入れました。
この時が伊東氏の最大版図となります。

しかし、伊東家中では既に崩壊が始まっていました。
伊東義祐の従兄弟で側近の伊東帰雲斎が、当主同然の振る舞いをしていました。
ただ威張っているだけなら、嫌われるだけで済んだのでしょうが…
領地を理由も無く没収するなどしたため、多くの家臣から恨みを買いました。
1572年には圧倒的な兵力差で島津義弘を攻めたものの、木崎原の戦で大敗。
以後、寝返る伊東家臣が後を絶たず、島津軍が佐土原城近くまで迫りました。
そのため、伊東義祐は観念し、豊後へと落ち延びました。
伊東義祐が去った佐土原城は、島津義弘の弟・家久が城主となりました。

1587年、島津家久が謎の死を遂げました。

豊臣秀吉が島津家を討伐し、島津義久は降伏しました。
島津家久は4兄弟の中で最初に豊臣軍に降伏したそうですが…
豊臣軍の陣に赴いた直後に急死したため、暗殺説が流れました。
豊臣秀吉は暗殺説を否定し、子の島津豊久に領地を安堵しました。

島津豊久は伯父の島津義弘に育てられ、信じられない程の武功を挙げました。
朝鮮出兵では、600の兵で3万の敵軍を追い払ったという武勇伝があります。
その島津豊久は関ケ原の戦での撤退戦で戦死。
佐土原城は徳川家康の家臣・庄田三太夫が一時預かることとなりました。

1603年、島津家に返還されました。

徳川家康の命令により、島津以久が佐土原3万石の城主となりました。
島津以久は、島津貴久の弟・忠将の子で、種子島の領主でした。
以後、明治時代に至るまで、佐土原島津家の居城となりました。


続日本百名城スタンプ設置場所(2018年4月6日スタート!)
鶴松館(佐土原歴史資料館)
開館時間 9:00~16:30
休館日 月曜日~金曜日(祝日は開館)

所在地:宮崎市佐土原町上田島

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