清武城/宮崎市 | なぽのブログ

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お休みヒマだ~、どこ行こう?
・・・そうだ、お城!で始まった城跡巡り。
ふらっと訪ねた城跡を紹介します。


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清武城は伊東四十八城の1つで、主郭周辺が残っています。
訪問日は2018年2月10日です。

【写1】清武城

清武城周辺は道が狭く、辿り着いた後しばらくウロウロしました。
北側の広い道を城跡の入口を過ぎた所に、こんな所があります。
車の前の石碑には「加納小学校通学道路竣工記念碑」と彫られていました。
この広い道は、近くの小学校への通学路として建設されたようです。

【写2】清武城

この道の上り坂の途中に、両脇に白い板が置かれた場所があります。
ここが城跡への入口です。
ここから先の道は細く、車を停められる場所はありません。
道の両脇の形状から、往時からある虎口っぽい感じがします。

【写3】清武城

道の両脇にある白い物体ですラブラブ

【写12】清武城

道の右側が高く、そっちに入る道がちょこちょこあります。
そんな道全部に入り込んだので、軌跡が行ったり来たりになってますw
そのなかの1本がこれで、右奥がどうも堀切っぽく見えます。

【写13】清武城

堀切、ですよね?

【写14】清武城

左の緩い登る道を上がると、細長い平坦面に出ました。
腰曲輪のようです。
この真上が主郭です。

【写4】清武城

元の道に戻りさらに進むと、Y字路の手前にまた案内があります。
車で通るとアッサリ見落としますw

【写5】清武城

案内に従って右へ進み、ぐるっと大回りの右カーブを曲がります。
このカーブの先に、こんな空き地があります。
どう見ても、土塁に囲まれた曲輪ですよね?

【写6】清武城

そのまま道なりに進むと、右脇に入るよう案内があります。

【写7】清武城

この案内から真っすぐ登り切った所が主郭です。
狭く見えますが、単に竹藪に囲まれているだけです。
竹藪の中も平坦面が続いていたので、実際はかなり広そうです。

【写8】清武城

せっかくなので、城址碑を大き目にウインク

【写9】清武城

主郭を見終わり、先ほどの案内から更に先へ進みました。
道は大きく左へカーブし、その周辺から段々の平坦面がいくつも続きます。
現在は畑になっていますが、主郭を囲む曲輪群があったようです。
断崖に囲まれた山上に曲輪群があり、一番高い所が主郭だった感じです。

【写10】清武城

さて、現地で地図を見ていて超気になる文字が近くにありました。
それは「稲津掃部助の墓」という文字です。
さっきの城跡入口から坂を下った所に、こんな空き地があります。
この右端を奥へ進むと、雑木林に入る道があります。
お墓はこの奥にあります。

【写11】清武城

周りに数基お墓がありますが、稲津掃部助のお墓はこれです。
歴史の所で触れますが、悲劇の城主様に登城の挨拶をしました。


◆歴史◆

1379年、清武祐行により改修されました。

清武祐行は足利尊氏に命じられて日向に下向した伊東祐重の弟です。
清武氏は重い地位にあったと思われ、伊東宗家と婚姻関係が続きます。
清武祐行の後は子の祐恩、次いでその弟・祐憲が継いでいます。

清武祐憲は1448年、伊東祐堯に請われて領地の一部を与えています。
伊東祐堯は日向伊東家当主で、伊東氏の勢力を拡大した人物です。
...文章では繋がりがわかりづらいですよねw
ということで、両家の繋がりはこんな感じです。

系図

伊東祐堯は門川土持氏を滅ぼし勢力を拡大した剛腕なイメージでしたが…
一族の長老・清武祐憲におねだりする可愛い一面もあったんですねw

1485年、伊東祐堯が清武城で没しました。

飫肥の新納忠続と櫛間の島津久逸の争いに、伊東祐堯が介入しました。
伊東祐堯は清武城に滞在し、子・伊東祐国の出陣を見送りました。
伊東祐堯はこの城で、77歳の天寿を全うしました。
しかし、跡を継いだ伊東祐国が、翌1486年に島津軍との戦いで戦死。
伊東家はその後しばらく、家中の主導権争いに明け暮れることとなります。

1572年、城主が討死しました。

伊東祐国の孫・義祐の代に島津軍を破り、念願の飫肥城を手に入れます。
この頃が日向伊東氏の最盛期とされます。
更なる勢力拡大を目指す伊東義祐は、飯野城の島津義弘を攻めました。
10倍の兵力で攻めた伊東軍でしたが、島津軍に壊滅的惨敗を喫しました。
これが、九州の桶狭間と呼ばれる木崎原の戦です。
この戦で清武城主・長倉伴九郎と上別府宮内少輔が討死しました。
その後、伊東家臣が島津軍に次々と寝返り、伊東崩れと呼ばれました。
そして1577年、伊東義祐はついに豊後へと落ち延びました。

1587年、再び伊東家の城になりました。

伊東崩れの後、清武城には島津家臣・伊集院久宣が入りました。
1587年、豊臣秀吉が島津家を討伐し、多くの領地を没収しました。
この討伐後、伊東義祐の子・伊東祐兵に清武城と曽井城が返還されました。
清武城には1598年、伊東祐兵の寵臣・稲津重政が入りました。

1602年、城主が討たれました。

関ヶ原の戦では、伊東祐兵は西軍に属しました。
しかし、東軍優勢の状況に焦った伊東祐兵は、東軍への寝返りを画策。
その手土産に、西軍の高橋元種の宮崎城を攻め落とすことにしました。
伊東家の家老・稲津重政は、見事な指揮で宮崎城を攻め落としました。

しかし、高橋元種は遠く離れた大垣城で、既に東軍に寝返っていました。
そのため、徳川家康が勝利した後、宮崎城は高橋元種に返還されました。
そして、この気まずいタイミングで、伊東祐兵が大坂城で没しました。
すると、12歳で家督を継いだ伊東祐慶が稲津重政の討伐を命じました。
…本人の意志で出来る事ではありませんよねw
稲津重政は清武城に籠城し抵抗しましたが、最後は自害して果てました。

1615年、一国一城令により廃城となりました。


所在地:宮崎市清武町加納甲

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