山陰城/宮崎県日向市 | なぽのブログ

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お休みヒマだ~、どこ行こう?
・・・そうだ、お城!で始まった城跡巡り。
ふらっと訪ねた城跡を紹介します。


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山陰城(やまげ)は伊東四十八城の1つですが、場所がわかりにくいです。
訪問日は2018年2月11日です。
今月は前半に殆ど書いてないので、後半に沢山書きます鉛筆

【写1】山陰城

実はちょっと(かなり)迷ったので、正しいルートを先に書きます。
私が辿ったまんまを書くと、よゐ子が真似しますからw
まずは、登城口までは林道(下の地図の茶色い線)を通ります。
その入口にこの案内があります。

【写2】山陰城

上の写真で左奥にチラっと写っている石垣です。
この組み方、かなり怪しいと思いませんか?
戦国時代後期に組まれたもののように見えます。

【写3】山陰城

・・・いきなり脇道に反れましたが、林道は未舗装で荒れ気味です。
私は車で走りましたが、凸凹でバンパーやっちゃいましたガーン
林道の入口から登城口までは600メートル程です。
車高が低めな車は、迷わず降りて歩く事をお勧めします。
林道を上って行くと、左へ曲がる分岐があります。
ここには山陰城の案内はありませんが、この左の道へ入ります。

【写4】山陰城

左の道に入って100メートル程進むと、道の右側に山道が現れます。
山陰城の案内があるここが登城口です。
尚、林道のこの先は崩落しているので、分岐から先は対向車は来ません。
・・・じきに道の復旧工事が始まるかもしれませんけどw
ただ、Uターン出来るスペースはありません。
車は林道の途中の路肩に停め、歩いて登るのが良いと思います。
3つ目の右カーブの外側に、車を停められるスペースがあります。

【写5】山陰城

正しい登城路を書いたので、私が辿ったルートも書きます。
・・・まぁ、苦い思い出ですw
どこから登るのかわからず、とりあえず傾斜の緩い尾根から登りました。
まぁ、道無き山城であれば常套手段です。
ここが道っぽく見えたのがいけないんですw

【写6】山陰城

順調♪順調♪と尾根を登っていましたが、突然シダの壁にぶち当たりました。
急な斜面にシダがビッシリ密生していたので、本当に壁のようでした。
この時私は、迷わずシダに掴まりながら急斜面を登りました。

【写7】山陰城

上が平らになってるなぁなんて登り切ると、そこには林道がw
またやってもうたと思いつつ、右へ進むか左へ進むかちょっと思案。
特に理由はありませんが、右へ進みました。

【写8】山陰城

すると、道が派手に崩れていましたw
倒木や土砂を乗り越えて進み、上に紹介している登城口に辿り着きました。
帰りはその先の林道へ進みましたが、全く崩れていませんでした。
「正しい」と紹介した登城路は、私が帰りに通った道ですあせる

【写9】山陰城

さて、正しい登城路に戻ります。
案内のあった山道は、ちゃんと整備されています。
しかも、ある程度の間隔で赤テープの目印が付けられています。
山道は時々九十九折れで鋭角に曲がります。
正面に赤テープ見えなくなったら「あ、曲がるんだ」とわかります合格

【写10】山陰城

山道を登り切ると、段になった細い平坦地に出ます
ここは細長い曲輪が階段状に三段並んでいます。

【写11】山陰城

登り切った所から右を見ると、そこそこ広い曲輪があります。
曲輪の形をトレースしようと奥へ進むと…

【写12】山陰城

端っこに、一段高い土の壇があります。

【写13】山陰城

この壇に上がると、ここも広い曲輪になっていました。
ここは木が伐採されていますが・・・

【写14】山陰城

外側はかなり広い範囲で木が無くなっています。
山城巡りをしていると、時々こんな光景を見かけます。
目的が何なのかが?ですが、城跡が崩されない事を祈るばかりです。

【写15】山陰城

木の伐採は、城跡の端まで迫っています。

【写16】山陰城

この伐採境は奥の山の頂上まで、尾根に沿って続いています。
その途中、城キチならすぐにわかる二重堀切様が鎮座していました恋の矢恋の矢恋の矢

【写17】山陰城

1人目の堀切様です。
お美しいですチュー

【写18】山陰城

2人目の堀切様です。
こちらも超タイプですラブ
・・・独り言なので、軽くスルーして下さいあせる

【写19】山陰城

堀切の所でUターンし振り返ると、三角形の小さな曲輪があります。
そこから1メートル程の段差があり、大きな曲輪が続きます。
ここが主郭でしょうか。

【写20】山陰城

その先の登城路方向へ進むと、細長い三段の曲輪が続いています。
一番外側は土塁に見えますが、その下の二段の曲輪と同じ位の幅があります。


ザックリですが、曲輪の配置はこんな感じでした。


◆歴史◆

天文年間(1532~55年の間)に米良喜内則村により築かれました

米良喜内は伊東家臣です。
地理的には米良氏の本拠である九州山地と海岸部の間にあります。
支城として西城も築いており、東西の交通を抑える役目があったようです。

島津家の城となりました。

1576年から77年にかけて、小林から高岡一帯の城主が島津方に寝返りました。
これにより伊東軍は劣勢となり、伊東義祐は豊後へ落ち延びました。
この時に山陰城主・米良喜内は島津軍に降伏したようです。

翌1578年、大友宗麟が日向に侵攻しました。
すると米良喜内は、門川城・塩見城とともに内応し、大友軍を先導しました。
しかし、耳川の戦で大友軍が島津軍に壊滅的大敗を喫しました。
山陰城には、島津家臣・吉田右衛門が入りました。

秋月家の城となりました。

1586年、豊臣秀吉による九州征伐が行われ、島津義久は降伏しました。
この時、秋月種実も島津軍に同調して、豊臣軍に抵抗しました。
そのため領地を減らされ、本拠の筑後・秋月から日向・高鍋に移されています。
その後、1615年の一国一城令により、山陰城は廃城となりました。


所在地:宮崎県日向市東郷町山陰

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