なぽのブログ

お休みヒマだ~、どこ行こう?
・・・そうだ、お城!で始まった城跡巡り。
ふらっと訪ねた城跡を紹介します。


テーマ:
小林城は三ツ山城とも呼ばれ、戦国時代に築かれました。
訪問日は2017年12月31日です。

【写1】小林城

小林城跡への入口は、大手橋の正面の小道を入った所です。
車をどこに停めようかと悩んだ末、突き当りのグラウンド入口に辿り着きました。
帰りはチョコチョコと前後に動いて何とか転回しましたが・・・
改めて周辺を見ると、大手橋交差点の南西の角が空き地に見えます。
私だったら・・・w

【写2】小林城

グラウンドの5メートル手前で、白い説明板が寝そべっていました。
これが小林城の説明板です。
足元が腐ってしまい、立っていられなくなったようです。
その脇の奥へ入る道が登城路です。

【写3】小林城

そこから10メートル進むと、湾曲して登る凝った所があります。
どうやら虎口のようですラブラブ
ここで道が二手に分かれます。
私は時計回りで左側の道へ進みました。
そちらには「←堀跡」の案内がありましたので恋の矢

【写4】小林城

「堀跡ちゃ~ん、どこかいな?」と進みますが、しばらくは帯曲輪が続きます。

【写5】小林城

やがて、土塁がしっかりした大手門に辿り着きます。
こっちに大手門があるなんて、何も案内ありませんでしたけどw
でも、ガッチリした土も門もなかなかイイもんです合格

【写6】小林城

大手門を裏からも堪能していたら、端っこに堀跡と書かれたプラカードが立っていました。
どうしてこんな物陰に隠すように案内置くんでしょうwww

【写7】小林城

そこから下を覗き込んで見えたのは、堀というより帯曲輪な感じでした。
まぁ、堀「跡」って書かれていますからね、期待し過ぎだったかもしれません。

【写8】小林城

そこから先はかな~り広く、かな~り長い帯曲輪が続きます。
この帯曲輪が三の丸です。
三の丸は上の本丸・二の丸をグルッと囲んでいて、300メートル程続きます。
この外側は竹が密生していますが、目を凝らしてみるととんでもない規模の堀でした。
こっちの竹を退治して「堀」の案内立てればいいのになんて、堀好きは思います。
いつも堀って扱いが低いんですよね・・・クローバー

【写9】小林城

三の丸の突き当りでは、城塁の上が段になっています。
これが本丸の南側の腰曲輪です。

【写10】小林城

その端に通路が付けられていますが、後世になって造られた道のようです。
入口の虎口があんなに凝っていたのに、ここはすんなり上がれてしまいます。

【写11】小林城

上がった所が本丸です。
かな~り広いです。

【写12】小林城

その真ん中に真っすぐ窪んだ谷のような地形があり、階段が付けられています。
一応カギ形に曲がっているので、昔は凝った虎口があったのかもしれません。

【写13】小林城

階段を下りる途中にある段が二の丸です。

【写14】小林城

下から見上げた坂道です。
上から見たら真っすぐに見えましたが、下から見たらクネっていました。
これ見ただけでも、きっと何か仕掛けがあったんだと嬉しくなりました音譜
出来ればどんな仕掛けがあったのか見たかったのですが・・・

【写15】小林城

本丸からの階段を下りると、最初の虎口に戻って来ました。
上がって来る道は狭く曲がっており、上から迎撃しやし構造しています。
反対側から見ると、とっても美人な虎口様でした恋の矢


◆歴史◆

1566年、伊東義祐が米良重方に築かせました。

当時は伊東義祐と島津貴久が、真幸院の旧北原氏領を巡って争っていました。
1562年に一時は伊東義祐が北原氏領を乗っ取りましたが、すぐに島津軍に奪われました。
島津貴久は北原兼親を立てて北原氏を復興しましたが・・・
当主を見限った家臣の出奔が相次いだため、島津義弘を代わりに入れて守らせました。
伊東義祐は飯野城の島津義弘を攻めるため、新たな前線基地として小林城を築きました。
当時の地名は三ツ山と呼んだため、三ツ山城と呼ばれていました。
すぐ南に同じ名前の城が既にありましたが・・・
そこは、混乱させるためにわざとそうしたのかもしれません。

築城中に島津軍に攻められました。

しかし、そんな物騒な拠点構築を黙って見過ごす島津義弘ではありませんでした。
築城中に島津軍が押し寄せ、伊東軍と激しい戦闘が行われました。
堀は戦死した兵で埋まり、200頭以上の牛馬が焼け死んだと伝わります。
城主の米良重方は弟・米良矩重とともに自ら槍で奮闘。
島津義弘が負傷したため、島津軍は撤退しました。

1576年、島津軍の城となりました。

その後も伊東軍と島津軍は激しく争い続けました。
1571年に島津貴久が没すると、翌年、伊東義祐は肝付兼亮とともに島津領へ侵攻しました。
伊東軍は各地に兵を取られ手薄となった飯野城を、10倍以上の兵力で攻めました。
この戦は木崎原の戦と呼ばれ、島津軍の大勝利で伊東軍を撃退しています。
加久藤城攻めに失敗し退却する際、小林城主の米良重方が討死しています。

1576年、島津軍が大軍で伊東方の高原城を攻め落としました。
すると、小林城主の米良矩重が島津方に寝返りました。
米良矩重は兄の討死後はその後を継いでいましたが・・・
兄が島津家から飫肥を割譲させた時に得た領地を、理由も無く没収されていました。
その恨みは相当激しかったようで、伊東義祐が懐柔しようと送った使者を斬る程でした。
米良矩重の須木城主も同時に寝返り、取り上げられていた野首城も奪い返しています。

小林城一帯が寝返った事で、翌年近隣の城が相次いで島津方に寝返る伏線となりました。
これが原因で伊東家は崩壊し、滅亡へと突き進んだのでした。
島津方となった小林城は、川上忠兄が16歳の若さで城主に抜擢されました。
島津家の城となると、南にある同名の城と区別するため小林城と改名されました。

米良矩重の本貫地・須木は宮原景種が地頭となりましたが・・・
1583年に宮原景種が肥後国佐敷へ移ると、米良矩重が須木地頭に復帰しています。

1615年、一国一城令により廃城となりました。


所在地:宮崎県小林市真方

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