なぽのブログ

お休みヒマだ~、どこ行こう?
・・・そうだ、お城!で始まった城跡巡り。
ふらっと訪ねた城跡を紹介します。


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飯野城は、島津義弘が26年間城主を務めたお城でした。
訪問日は2017年12月31日です。

【写1】飯野城

飯野城の南にある川内川の橋を渡ると、最初の案内があります。
手作り感満載の案内には「亀城公園」と書かれています。
飯野城は地元では「亀城」と呼ばれているようです。

【写2】飯野城

案内に従って進み、あとちょっとで城跡という所にこの説明板があります。
来た時には目の前に車を停められず、帰り掛けにちょっと離れた所に停めて撮りました。
説明文自体は簡素なものですが、私の目当ては縄張図ですw

【写3】飯野城

そして間もなくこの大手門が現れます。
写真を見てお分かりの通りですが、車のまま登れます。

【写4】飯野城

最初に現れる案内が「弓場」です。
ですが、弓道場が出来る程の奥行きはありません。

【写5】飯野城

間もなく、真正面に土の壁が現れます。
この土の壁は三の丸です。ここがちょっと広くなっており車を停められます。


【写6】飯野城

そして、ここから右に見える山が二の丸です。
木がかなり伐採されています。

【写7】飯野城

突き当りから右には、二の丸と三の丸へ続く道があります。
道端には伐採された木が積まれ、キャタピラの跡が生々しく残っています。

【写8】飯野城

三の丸内部の様子です。
半分程木々が伐採されています。

【写9】飯野城

三の丸の裏はかなり深い谷になっています。

【写10】飯野城

木々が伐採されていない所を見てみたいと思いましたが・・・
竹が縦横無尽に倒れていて、中を歩けそうにありませんでした。

【写11】飯野城

そして、二の丸も見たかったのですが・・・
入口はこんな感じです。
伐採された木が乱雑に積まれ、こちらも入ることが出来ませんでした。
しかしこの伐採、ココが開発されるのか、それとも公園化されるのか、とても気になります。

【写12】飯野城

二の丸・三の丸への道を下りそのまま真正面を見ると、白い案内がありました。
その白い札には「搦手門」と書かれていました。
大手門から真っすぐ上がって来た突き当りがココですが・・・w

【写13】飯野城

この奥には山中に続く道があります。
案内には加久藤城への連絡道と書かれていました。
加久藤城はココから4kmちょい西ですが・・・
裏道でしょうか?

【写14】飯野城

大手門から上がって来た所が搦手門ですが、そこでヘアピン的に左へ曲がる道があります。
その途中、グルッと曲がる所から、向こう側にある物見曲輪が見えます。

【写15】飯野城

道をそのまま進むと虎口が見え、

【写16】飯野城

上がった所が本丸です。
かなり広いですラブラブ

【写17】飯野城
本丸にある図

その真ん中に説明板と案内図、そして城址碑がありますラブラブ

【写18】飯野城

本丸の一番奥にも虎口があり、下りる道があります。

【写19】飯野城

その先にあるのが、さっき本丸に行く途中で見えた物見曲輪です。
この一番奥まで車で乗って来ることが出来ます。


◆歴史◆

1160年、日下部重貞により築かれました。

日下部重貞が真幸院の院司となり、城を築きました。
院は租税の米を蓄える蔵を指し、真幸という所に蔵がありました。
そしてこの蔵に収める米を納めた地域全体を、真幸院と呼ぶようになりました。
真幸院は現在のえびの市、小林市、高原町一帯です。
日下部氏は鎌倉時代終わりまで真幸院司であり続けましたが・・・
北条得宗家との関係が深かったため、鎌倉幕府滅亡とともに没落しました。

室町時代に北原氏が真幸院司となりました。

室町時代が滅びた後、一時は南朝方の肝付氏が真幸院を支配していたようです。
しかし、北朝方の畠山直顕が日向に下向すると、肝付氏を圧倒しました。
その後、畠山直顕が日向守護となると、真幸院の細川氏領を押領しました。
この時に北原氏に押領した細川氏領を与えたのが、北原氏が真幸院に来た始まりでした。
北原氏って、肝付氏の一族なんですけどね・・・w
北原兼幸は北原氏の祖とされ、1345年に真幸院司となり飯野城に入りました。

1562年、伊東氏の領地となりました。

1558年、北原氏の当主・北原兼守が急死すると、北原家で家督争いが始まりました。
北原兼守は娘を従兄弟(北原兼孝の子)に嫁がせ、後継者にすると決めていました。
しかし、その娘が幼い内に世を去った事が、争いの発端となりました。
すると、北原兼守の正室の父であった伊東義祐が介入。
北原兼守の未亡人である自分の娘を、北原一族の馬関田右衛門佐に嫁がせ後継者としました。
伊東義祐のこの強硬措置に反発する北原家臣は、都於郡城に呼び出されて粛清されました。
これにより、伊東義祐が北原氏の領地全てを乗っ取りました。

1562年、北原氏が復興しました。

伊東義祐により乗っ取られた年の内に、北原兼親を当主として北原氏が復興しました。
北原家臣・白坂下総守が島津貴久を説き伏せ、相良氏、北郷氏の協力を得たため実現しました。
連合軍は馬関田城を皮切りに伊東方の城を攻め、5月には飯野城を奪い返しました。
その後も優勢に戦いを進め、年内には北原氏領をほぼ奪還しました。

1564年、島津義弘が城主となりました。

しかし、翌年になると相良氏が寝返り、伊東氏と組むようになりました。
えびの市の大明神城を攻め落としました。
また、北原兼親が家臣と些細な事から争い、それが元で伊東軍にその家臣の城が奪われました。
島津貴久は北原兼親を薩摩の伊集院に移し、自らの次男・島津義弘を城主としました。

その後、伊東義祐は飯野城の島津義弘を何度も攻めましたが、撃退しました。
1572年に撃退した時の戦は「木崎原の戦」と呼ばれ、伊東家崩壊のきっかけとなりました。
その後、1577年には宿敵・伊東義祐を日向から追い、伊東家を滅ぼす事に成功しました。

1590年、島津義弘が栗野の松尾城へ移りました。

島津義弘の嫡男・島津久保の居城となりますが、朝鮮半島に渡りその地で病没してしました。
その後も島津家の城として存続し、1615年の一国一城令により廃城となりました。


所在地:宮崎県えびの市飯野

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