飫肥城/宮崎県日南市 | なぽのブログ

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お休みヒマだ~、どこ行こう?
・・・そうだ、お城!で始まった城跡巡り。
ふらっと訪ねた城跡を紹介します。


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飫肥城は伊東氏と島津氏が100年以上争奪戦を繰り返した城で、伊東48城の1つでもあります。
訪問日は2018年1月1日です。

【写1】飫肥城

まずは大手門です。
1870年に取り壊されましたが、1978年に復元されました。
10年前に一度来たことがありますが、夜になってしまいこの門だけ撮りました。
なので、ちゃんとこのお城を見るのは初めてだったりしますラブラブ

【写2】飫肥城

大手門の前の堀です。
本来は水堀なのかもしれませんが、どうなんでしょうか?
普段山の中でこれくらい立派なのを見ると感動するものですが・・・
お堀って、総石垣の立派なお城だと、どうしても脇役になっちゃいますよね?
ひどい所だと、お堀だけ木が茂り放題なんて所もありますし。
・・・愚痴り始めると長くなるので、この辺でw

【写3】飫肥城

大手門をくぐった瞬間「うわぁ~恋の矢」となりました。
やっぱり白壁の枡形っていいですねラブラブ

【写4】飫肥城

しばらくここでキュンキュンしてました。

【写5】飫肥城

枡形を出ると、また目の前に白壁が迫って来ます。

【写6】飫肥城

歴史資料館の「通行手形」の縄張図を見ると、ここも大きな虎口の一部となっています。
白壁が食い違いになっていて、真正面からはこの入口が見えないなんて、凝ってます恋の矢

【図】飫肥城
拡大表示

ということで、縄張図です。
資料館の入場券に印刷されているもので、デカデカと印刷されていた文字を削っています。
ペイントだけでも、これくらい出来ちゃいますw

【写7】飫肥城

枡形虎口→食い違い虎口を通ると、城郭風の建築物が現れます。
・・・だって城跡ですからw
これが100名城スタンプのある飫肥城歴史資料館です。

【100名城スタンプ】飫肥城
開館時間9:00~17:00(入館は16:30まで)
入館料200円
7施設共通券:大人610円、高大460円、小中360円
休館日年中無休
7施設歴史資料館、豫章館、松尾の丸、小村記念館、
旧山本猪平家、商家資料館、旧高橋源次郎家

・・・なんて、本性ムキ出しになっちゃいましたラブラブ
100名城は制覇済みですが、スタンプは全然押してなかったので2周目回ってます。
1周目はお城の事がよくわかってなかった所が多いので、2周目で感動しまくってますラブラブ
それはそれで、今となっては正解だったなんて自分に言い聞かせてますあせる

【写8】飫肥城
旧本丸の説明板を拡大表示

資料館で鎧兜や刀、槍などを見た後、さらに奥へ進むと旧本丸があります。
「旧」というのもよそではあまり聞きませんが・・・
その理由がこの説明板に書かれていました。

【写9】飫肥城

その先が旧本丸への入口です。
緩やかな石段の先に、ガッチリした石垣の門があります。
この石段も、昔はもっと違う形だったのかもしれません。

【写10】飫肥城

旧本丸の枡形虎口です。
白壁が無くても、やっぱりこの眺めはサイコーですラブラブ
ココでまたしても、しばし堪能しましたw

【写11】飫肥城

旧本丸はかなり広いのですが、杉の木が結構生えています。
廃城後、放置された時期があったのでしょうか。

【写12】飫肥城

あまり高くはないのですが、北側から西側にかけて土塁が残っています。

【写13】飫肥城

その土塁に埋もれるように、門が1つあります。

【写14】飫肥城

これは旧本丸北門といい、復元されたものです。
趣があるので、現存かと思いました。

【写15】飫肥城

旧本丸は、松尾丸との間を巨大な堀切で隔てられています。

【写16】飫肥城

堀切越しに見た松尾丸です。

【写17】飫肥城

本丸は現在、大部分が飫肥小学校の敷地となっています。
歴史資料館から旧本丸までの道も、小学校の校庭脇にあり仕切りはありません。
この小学校に通う子の中から、将来有望な城キチが誕生するかもしれませんねw

【写18】飫肥城
説明板を拡大表示

旧本丸の南隣には、松尾丸という曲輪があります。
こちらには書院造りの御殿が復元されています。
復元とは書きましたが、ここにこういう物があったという事ではありません。
同時代のものを模して、ここに建てたという代物です。

【写19】飫肥城

入場は有料なので、表から撮って退散しました。


◆歴史◆(想像が多々ありますあせる

南北朝時代に土持氏により築かれたとされます。

土持氏は平安時代より日向で栄えた一族です。
日向一円を支配していたのですが、伊東氏がやって来てからしばらくは共存していました。
しかし、南北朝時代に九州探題・今川了俊が、功の多い方を日向守護にする約束をしました。
この頃から両家の関係はおかしくなり、伊東氏が土持氏を圧倒するようになったそうです。

飫肥では1362~69年にかけて籠城戦があり、土持氏が攻め落としています。
籠城したのは南朝方勢力で、土持氏は北朝方として攻めています。
遅くともこの時までに城が存在していますが、築城時期や築城者は不明のままです。

それから新納忠続が飫肥に入るまでの経緯が???なので、ちょっと想像してみました。
なのでここから数行は、城キチによる妄想タイムです
飫肥には確かに土持氏が居ました。
それがいつの間にか居なくなり、ある日突然島津家から新納忠続が城主として入りました。
当時の日向では伊東祐堯が日向守護職を求め、幕府に使者を送っていました。
これに猛烈に反発したのが、古来から日向の大部分を支配していた土持氏です。
両者が軍事衝突を始めたのが、1456年の事です。

土持氏は支族が日向中に居たため、本格的に戦うと伊東軍は囲まれてしまいます。
伊東祐堯は、島津氏とは1480年までは友好関係にあったそうです。
そのため、伊東軍は北の土持氏、島津軍は南の土持氏と戦ったのではないかと思います。
島津軍への報酬が滅ぼした土持氏の領地という事であれば、島津氏は協力すると思います。
島津立久のクーデターが戦が終わった直後であれば、新領地への配置もやりやすいですよね?
・・・何も根拠がありませんので、ここまではタダの推測ですあせる

1458年、新納忠続が城主となりました。

剛腕守護・島津忠国をクーデターにより隠居させた島津立久が、一族を各地に配置しました。
その中で、クーデターを手伝った新納忠治の子・新納忠続が飫肥城主となりました。
これは日向の伊東氏の南下を防ぐ措置で、隣接する櫛間城には弟の島津久逸を配置しました。
新納氏の本拠地である志布志は、新納忠続の弟・新納是久が留守を守りました。
新納是久は島津久逸の子・島津善久を婿養子に迎え、両者の関係は良好でした。
新納忠続と島津久逸はやがて対立しますが、新納是久は島津久逸に味方しました。

さて、伊東氏の南下に備えてと書きましたが、1480年頃まで伊東氏との関係は良好でした。
1480年に伊東氏の柴波洲崎城を島津軍が攻めた事から、両家の関係は悪化します。
地図を見ると、ここ攻めそうなのって飫肥の新納忠続しか思い浮かびません。
一応、新納氏も島津一族ですからw
この辺りは後世、飫肥の属領として扱われているので、勢力境だったのかもしれません。
新納忠続は南隣の島津久逸とも対立していました。
その原因が、島津久逸の勢力拡大を危惧したなんて書かれていますが・・・

1486年、島津忠廉(豊州家)が城主となりました。

1473年、新納忠続が島津久逸を本貫地である伊作に戻すよう、島津忠昌に要請しました。
島津忠昌はこの要請に応え、島津久逸に伊作へ戻るよう命じました。
ここから11年の間に何があったのか?ですが、グズって睨み合いが続いていたのでしょうか?

さて、新納忠続は島津本家を利用するタイプだったので、島津忠昌に援軍を要請しました。
そこで、島津忠昌は帖佐の島津豊州家に飫肥の援軍に向かうよう命じます。
しかし、島津豊州家の島津忠廉はその命令を無視し続けました。

1484年、島津久逸は伊東祐国と大友氏の援軍を得て、島津忠昌攻めを開始しました。
連合軍は島津忠昌の居城である清水城に迫りましたが、相州家と薩州家の援軍により撃退。
島津忠廉はこの時に島津忠昌を攻める構えを見せましたが、転じて島津久逸を攻めました。
今度は島津忠昌が反撃に転じ、島津久逸を降伏させました。
この一連の戦の中で、伊東祐国が飫肥城付近で島津軍により討ち取られています。

この戦の後、戦の原因となった島津久逸と新納忠続は、それぞれ本貫地に戻されました。
そして、飫肥と櫛間は島津忠廉(豊州家)に与えられています。
また、伊東家には三俣院1000町の領土が割譲されました。
しかし、ここから伊東家による飫肥攻めが断続的に行われるようになりました。

1562年、伊東義祐が飫肥城を一時的に奪いました。

この頃は、大隅の肝付兼続と伊東義祐が手を組んで、島津貴久と戦っていました。
飫肥城には島津忠親(豊州家)が居て、何度も伊東軍の侵攻を阻止して来ました。
その対策として、1560年に武勇の誉れ高い島津義弘を養子に迎え、飫肥城に配置していました。
しかし、島津本家が肝付兼続の攻撃でピンチになり、島津義弘はやむなく実家に帰りました。
すると、その機を逃さずに伊東義祐が飫肥を攻め、島津忠親は降伏しました。
しかしその半年後、島津忠親は夜間に奇襲し、飫肥城を奪還しました。
両者の飫肥城を巡る戦いは、その後もしばらく続きました。

1568年、伊東義祐が再び飫肥城を奪いました。

伊東義祐は2万の大軍で飫肥城を包囲し、兵糧攻めにしました。
島津義久は飫肥を放棄する事を決め、島津忠親は都城へ移りました。
伊東義祐は三男の伊東祐兵を飫肥城主にしました。

1577年、島津軍に攻め落とされました。

真幸院を巡る伊東家と島津家の争いは、島津家に分がありました。
1572年には伊東軍が飯野城を攻めたものの、木崎原の戦で大敗。
1576年には高原城が陥落し、小林城・須木城の米良矩重が寝返りました。
1577年には櫛間城が陥落し、迎撃に出た伊東祐兵は返り討ちに遭い飫肥城に籠りました。
さらに、野尻城、紙屋城、内山城が島津方に寝返り、伊東氏本拠の西がガラ空きに。
日向北部では、長年伊東氏に苦しめられてきた土持氏が蜂起し、西南北から挟まれました。
伊東義祐は日向を捨てる決断をし、米良から高千穂を通って豊後へ落ち延びました。
飫肥城は、伊東崩れのきっかけを作った島津家臣・上原尚近が城主となりました。

1588年、伊東祐兵が城主となりました。

1587年、島津家が豊臣秀吉により討伐されました。
これは島津家によりピンチに陥っていた大友宗麟の要請によるものでした。
伊東祐兵は大友宗麟のもとで島津家討伐に参加しており、戦後、清武と曽井が返還されました。
さらに追加で飫肥も返される事になりましたが・・・
伊東祐兵が飫肥城を受け取りに来ると、島津家臣・上原尚近が激しく抵抗しました。
城を明け渡すよう使者を送るとその使者を斬る始末で、そんな抵抗が翌年6月まで続きました。
最後は島津義久が説得し、上原尚近はようやく城を明け渡しました。
以後、伊東氏は改易されることもなく、明治時代まで飫肥城主であり続けました。


所在地:宮崎県日南市飫肥

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