高原城/宮崎県高原町 | なぽのブログ

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お休みヒマだ~、どこ行こう?
・・・そうだ、お城!で始まった城跡巡り。
ふらっと訪ねた城跡を紹介します。


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高原城は別名・松ヶ城とも呼ばれ、伊東48城の1つに数えられています。
訪問日は2017年12月31日です。

【写1】高原城

高原城は、宮崎自動車道のすぐ北側にありました。
写真の橋はこの高速道路を跨ぐ陸橋です。

【写2】高原城
説明板全体を拡大表示 ・ 説明板の縄張図だけ拡大表示

この陸橋の北東側に、斜めに入る道があります。
この説明板は、斜めに入る道の入口付近にあります。

【写3】高原城

斜めの道を上がると、そこは墓地でした。
薄暗い墓地を彷徨うと、一番奥はお墓が無く城跡方向を見ることが出来ました。
ただ、墓地の端は高い草が茂っているため、カメラを目一杯持ち上げて撮っています。

ここは事前のリサーチで、私有地のため立ち入ることが出来ない事は知っていました。
説明板の縄張図でも、確かに周囲の等高線が密集して断崖に囲まれている様子がわかりました。
墓地から城跡方向を見た時に、城跡の方に続く道が見えました。
その道を目で追いかけると、墓地の手前にある民家に続いていました。
つまり、城跡への道は、この民家を通らなければ通ることが出来ません。
立ち入ることの出来ない仕組みがわかり、ちょっとスッキリした年末最後の城跡でした。


◆歴史◆

梅北掃部により築かれたと伝わります。

築城時期があいまいなのですが、島津家臣・梅北掃部により築かれたとされます。
Wikipediaでは永禄年間(1558~70年の間)築城後、1553年に北原氏に奪われたと書いています。
・・・タイムマシン乗っても無理ですw
北原氏に奪われる前に築いたのなら、それ以前ということになります。

1553年、北原氏の城となります。

北原氏がこの時期に戦っていたのは北郷氏(都城を本拠とした島津一族)です。
なので、上に書いた梅北掃部も北郷氏家臣の可能性が高いと思います。
北原家臣・白坂下総介が城主となりました。

1559年、伊東氏の城となりました。

北原氏当主・北原兼守が急死し、家督争いが始まりました。
北原兼守の正室が伊東義祐の娘であった事から、伊東義祐がこの争いに介入します。
伊東義祐は娘を北原一族の馬関田右衛門佐に再嫁させ、北原家の乗っ取りを図りました。
反伊東派北原家臣を伊東義祐が粛清し、難を逃れた白坂下総介は島津家の元に逃れました。

1562年、北原家が再興されました。

白坂下総介らが中心となり、島津貴久に北原家再興を願い出ました。
島津貴久は応じ、北郷時久・相良義陽も協力して伊東氏を北原領より駆逐しました。
城主には白坂下総介が復帰しました。

1564年、再び伊東氏の城となりました。

北原兼親が伊東氏の侵略をよそに、家臣と度々問題を起こしました。
そのため、北原兼親を見限って出奔する家臣が相次ぎました。
白坂下総介もこの時期に出奔し、その後の消息がわからなくなっています。
城は伊東氏のものとなり、福永源左衛門が城主となりました。
尚、島津貴久は北原兼親を薩摩国伊集院に移し、島津義弘を飯野城に入れました。

1572年、木崎原の戦で伊東軍が大敗しました。

伊東義祐が飯野城の島津義弘を攻めましたが、返り討ちに遭い大敗しました。
そのため、守りを強化するために伊東勘解由(長倉祐政)が城主となりました。

1576年、島津軍により攻め落とされました。

島津軍が大軍で包囲し、伊東勘解由は少ない城兵で激しく抵抗しました。
伊東勘解由は伊東義祐に救援を求めたものの、伊東義祐はビビッて戦いませんでした。
攻城側に多数の犠牲者が出たため、島津軍は力攻めから水の手を切る作戦に変更。
籠城側は水に窮し、和睦を要請。
伊東勘解由は城兵を引き連れて野尻城へと退却しました。
島津家臣・上原尚近が城主となり、そのまま高原地頭にも任命されました。

上原尚近はその後、野尻城主・伊東家臣の福永祐友を、策略により寝返らせました。
これがきっかけで伊東家は寝返りが続出し、伊東崩れにつながっています。
また、大友宗麟との耳川の戦で大活躍し、飫肥城主となりました。
豊臣秀吉による討伐後、飫肥城は伊東祐兵のものとなりました。
しかし、伊東祐兵が城に入ろうとすると拒否し、半年ほど激しく抵抗しました。
島津義久の説得により、ようやく飫肥城を明け渡したそうです。
・・・かなり骨のある武将ですねラブラブ

高原城は、1615年の一国一城令により廃城となりました。


所在地:宮崎県西諸県郡高原町西麓

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