清水城/鹿児島県霧島市 | なぽのブログ

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お休みヒマだ~、どこ行こう?
・・・そうだ、お城!で始まった城跡巡り。
ふらっと訪ねた城跡を紹介します。


テーマ:
清水城は大隅国の守護代・本田氏が本拠とした山城です。
薩摩にある「清水城」は「しみず」ですが、大隅のこちらは「きよみず」と読みます。
訪問日は2017年12月30日です。

【写1】清水城

ここが城内への入口です。
県道471号から北への道に入って10メートル位の所です。
すぐ先に駐車スペースがあり、そこに車を停めて歩きました。

【写2】清水城

ここも写真で紹介されてはいたのですが、位置がサッパリわからず。
執念で某大聖典の図でアタリをつけ、Google Mapのストビューで見つけました。
かつては都会の証拠だったストビューも、こんな山中まで見られるようになりました合格

【写3】清水城

さて、道に入って5メートルで、このような光景に遭遇します。
断面がボコボコなので、林道を通した時に削られたものではなさそうですラブラブ

【写4】清水城

上の写真の一番奥まで進むと、道の左側にバリケードがあります。
なんだか燃えて来るオブジェですメラメラ
そっちが城跡への道なのか?と思って近づくと・・・

【写5】清水城

竪堀チックに割れていました。
自然地形ですよね?
つい撮ってしまいますが・・・w
これを掘ってたら、間違って落ちてしまいそうな位に角度が急です。

【写6】清水城

さて、この道を歩いていると、所々に道を通すために切り通したような箇所があります。
そのたびに「ここ堀切かな?」と思い悩むのでした。
切り通された所では、その両側を見たり、断面を見たり。
そんな「ここどうだろう?」的なワクワクが止まらない城跡でした。

しかし、歩きながら「ここ城内だよね?」と思うくらい、構造が見えない感じはしました。
左側には断崖が迫り、右側には高い所が続きます。
高い所は曲輪なのか?と思って見ますが、上がって行けそうな感じが全くしません。

そんな感じでズンズン進むと、大きく右にカーブする所があります。
その左側がちょっと気になったので覗き込むと・・・

【写7】清水城

パックリ割れています。
道が通っていない所なので、アレですよね?
・・・ずっとこんな感じで歩いていましたw

【写8】清水城

その先の道は、急な下り坂に変わります。
あれ?通り過ぎちゃったのかな?と思い不安になりましたが・・・

【写9】清水城

そのまま進むと、道の先に何か見えて来ました!!

【写10】清水城

説明板の脇がザックリしています恋の矢

【写11】清水城

裏側から見た所です。
左右が土塁のような土の壁なので、ここは虎口のようです。

【写12】清水城

道は虎口の手前で左右に分かれ、虎口を過ぎた所でも左右に分かれています。
ここは城キチの直感で、真ん中の道を進みました。
この道は、左側に城塁を見ながら進みます。

【写13】清水城

割とすぐに城塁が開いている所がありました。
その向こう側が見えるという事はここも虎口?と思い、吸い込まれるように入りました。

【写14】清水城

中はこんな感じですが・・・

【写15】清水城

周りは人の背よりもかなり高い土塁で囲まれていますラブラブ
どうやらここが本丸のようです。

【写16】清水城

先ほどの道に戻って進むと、左へカーブした先にも虎口っぽい地形がありました。
写真ではわかりヅライのですが、左右から土の壁が迫って門のような形になっています。
道はそのままどんどん下って行く感じで、こちら側にも登城口がありそうな感じがしました。
某大聖典に載っている図では、こちら側が大手口、私が来た方が搦手口と書かれていました。
このまま進んだら城の南西側に出て、忠将屋形に出るのでは?なんて思いました。
思っただけで、ここでUターンしちゃいましたけどあせる


◆歴史◆

隼人の城だったと伝わります。

隼人は、大和朝廷が進出する以前から南九州に住んでいた人々を指します。
近くにある姫木城や橘木城、隼人城なども同じように隼人の城だったと伝わっています。
『日本書記』では682年から登場し、700年代には朝廷に激しく抵抗しました。
特に720年から翌年にかけての反乱は大規模なものでしたが・・・
大伴旅人による討伐を受けて降伏し、以後は朝廷に従うようになりました。

税所氏の城となりました。

税所氏は大隅の在地豪族で、税の徴収を司っていた職名が名の由来とされています。
系図等で平安時代に皇族が下向したことに始まると伝わっています。
(光孝天皇八代の孫・敦如または宇多天皇の皇子敦房親王より五代の孫、税所篤如)
曽於郡城(橘木城)を本拠とし、姫木城とともにココ隈部城(=清水城)を支城としていました。

鎌倉時代に大隅国守護代・本田氏の城となりました。

税所氏は大隅の在庁官人の大物として勢力を維持していました。
しかし鎌倉時代に入ると、島津忠久が薩摩・大隅・日向の守護となりました。
島津氏ははじめ、薩摩の出水に守護所として木牟礼城を築城。
守護代として本田貞親を派遣し、在地支配の足掛かりとしました。

1203年に比企の乱があり、比企能員と血縁があるとして守護職を剥奪されました。
しかし、島津忠久は1213年に薩摩守護に復帰し、本格的に在地支配を開始しました。
この時に大隅と日向の守護は北条得宗家のままでしたが・・・
大隅の守護代には島津家の筆頭家老・本田貞親が任命され、清水城を与えられました。

島津忠久の復権は、和田義盛の乱で幕府方としての活躍がきっかけでした。
税所氏も幕府方として行動し、一定の戦功は挙げていた筈です。
大隅の大族・税所氏を牽制するための、北条得宗家の命令があったのかと思います。

1447年、本田重恒が島津忠国と戦いました。

清水城の本田重恒が橘木城の税所氏とともに挙兵し、島津忠国の討伐を受けました。
島津忠国は姫木城に入り、攻め寄せた本田軍を返り討ちにしました。
この時に本田信濃守が討死したそうですが・・・
本田重恒と本田信濃守が同一人物なのかどうなのかが?です。
その後も本田氏が清水城主を続けているので、猶更???です。
島津忠国は強引な政治手法が反感を呼び、各地で島津一族や重臣が反乱を起こしていました。
そのため、1459年のクーデターにより隠居させられ、加世田で晩年を過ごしています。

1548年、本田氏が没落しました。

城主の本田薫親が姫木城の本田実親を攻めました。
なんで攻めたのか?ですが、一族内での内輪もめでしょうか?
この争いに島津貴久が介入し、本田薫親を討伐するため伊集院忠朗を派遣しました。
本田薫親は猛将の攻撃に降伏しましたが・・・
その後も勝手に朝廷に官位を要求するなどしたため、年内に日向に追放されました。
清水城にはしばらくの間、島津貴久が入りました。

説明板には、フランシスコ・ザビエルが訪ねて来たと書かれています。
そこで両者は会見し、キリスト教布教の許可を与えた説もあるとのことですが・・・
薩摩の一宇治城の説明板にも同じ事が書かれ、銅像まで建てられています。
清水城での日本初の布教許可説は、かな~り分が悪そうですw

島津忠将が城主となりました。

薩摩を平定した島津貴久は、大隅・日向へと勢力を拡大中でした。
その最前線となった清水城には、弟の島津忠将が入りました。
島津忠将は伊集院忠朗と並んで、島津軍のエース級の武将でした。

その島津忠将は、1561年に肝付軍からの廻城奪還戦で戦死してしまいました。
その後も子の島津以久、孫の島津彰久、曾孫の島津久信が城主となっています。
1596年、島津久信が鹿屋の大姶良城へ移された後は?ですが・・・
説明板では一国一城令で廃城と書かれているので、1615年までは存続したようです。


所在地:鹿児島県霧島市国分清水

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