樺沢城/新潟県南魚沼市 | なぽのブログ

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お休みヒマだ~、どこ行こう?
・・・そうだ、お城!で始まった城跡巡り。
ふらっと訪ねた城跡を紹介します。


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樺沢城(かばのさわじょう)は、上杉景勝の生誕地です。
訪問日は2015年8月2日です。

【写1】樺沢城

城跡の真正面にある龍澤寺です。

【写2】樺沢城

龍澤寺と道を挟んだ反対側に、城キチ用の駐車場があります合格
ストビューの2012年の画像では「入山禁止」と書かれ、工事車両が停まっていますが・・・
2011年7月26日から30日にかけてあった新潟・福島豪雨により被害を受けたようです。
その工事も終わり、城跡を散策することが出来るようになっています。
・・・2015年8月時点の情報ですあせる

【写3】樺沢城

登城口には、立派な案内板が設置されていますラブラブ

【写4】樺沢城
拡大図

もちろん、ごちそうさまです恋の矢
今回は三ノ丸から本丸に上がり、西ノ丸から下りる反時計回りにご紹介します。

【写5】樺沢城

城内の道は若干草が茂ってはいるものの、真夏でもちゃんと歩けます。

【写6】樺沢城

そして、割とすぐにこんな立派な堀が姿を現します。

【写7】樺沢城

下の方はとにかく案内が賑やかです音譜

【写8】樺沢城

山城らしい大手口を通ると

【写9】樺沢城

三ノ丸です。

【写10】樺沢城

上の白いのは二ノ丸を示す案内です。
次は草深いなw

【写11】樺沢城

でも、ヤブ搔きはしません。
間にある深い堀切を下って上がる道がありますラブラブ

【写12】樺沢城

二ノ丸です

【写13】樺沢城

またまた深~い堀切を通り過ぎ

【写14】樺沢城

胞衣塚を過ぎた所にある帯曲輪です。

【写15】樺沢城

ここは大雨で崩れちゃった所でしょうか。

【写16】樺沢城

登り切った所に樺桜があり

【写17】樺沢城

そのすぐ先が本丸です音譜
登城口からここまで23分です。
でも、本当に面白いのはココからです。
私の場合は、ですがw

【写18】樺沢城

本丸の裏側に、かなり急峻な下り道があります。

【写19】樺沢城

この急な坂を下った所に堀切があります。

【写20】樺沢城

さらに、こんなものまで恋の矢

【写21】樺沢城

かなり立派ですドキドキ

【写22】樺沢城

さらにその先に「竪堀登り口」の案内が。
その矢印は真正面を指しているのですが・・・
道、見えますか?w

【写23】樺沢城

まぁ、チョットだけならいいかwで進むと、早速小さな堀切がありました。

【写24】樺沢城

こんな感じの道を進むと

【写25】樺沢城

こんなの恋の矢

【写26】樺沢城

こんなのラブラブが待っています。
勇気を出してよかったですドキドキ

【写27】樺沢城

元来た道を戻り、今度は西ノ丸へ向かいます。
その手前もなんだかボコっと凹んで見えます音譜

【写28】樺沢城

絶景だらけの山城なので、ついつい写真を沢山載せてしまいました合格


◆歴史◆

築城年代は不明です

現地の立て札には、南北朝時代に新田義貞の家臣・田中右エ門の居城だったと書かれています。
その頃は「鞠子城」と呼ばれていたそうで・・・
どんな人だったのかな~なんてチョイチョイググってみますが、反応無し。
まぁ、上野国から越後国に入ると必ずココ通りますからね。
きっとお城はあったのでしょうね。

目の前にある龍澤寺の縁起がヒントになるかと思ったのですが・・・
1420年に不蔵青単禅師により創建だそうで、城との関連は?です。

上田長尾氏の城でした。

上田長尾氏は越後守護となった上杉氏とともに、越後へやって来ました。
上田荘に配置された長尾氏は上田長尾氏と呼ばれるようになり、坂戸城を居城としました。
関東から越後に通じる三国街道が通るため、上杉家にとっては特に重要な場所でした。
樺沢城は上田長尾氏の重臣・栗林氏、黒金氏、宮嶋氏、登坂氏らが城番を務めました。

1555年、上杉景勝が生まれました。

なぜ上田長尾氏の本拠である坂戸城ではないんだろう?というのが素朴な疑問でした。
当時は長尾景虎(上杉謙信)が家督を継いだものの、家中がまとまらず不穏な時期でした。
上杉景勝の父・長尾政景は長尾晴景方の中心人物だったので、景虎方の家臣と争っていました。
いつ敵に攻められても不思議でない本拠を避け、すぐに逃げられるココに避難したんですね。
そんな家中の争いに嫌になり、長尾景虎が出奔したのがこの翌年の事です。
長尾政景は1564年、宇佐見定満とともに野尻湖で舟遊び中に謎の死を遂げます。
上杉謙信は上田長尾家の動揺を収めるため、その遺児・景勝を養子に迎えたのでした。

1578年、御館の乱

上杉謙信が没すると、その養子である上杉景勝と上杉景虎が家督を巡って争いました。
上杉景勝は、上杉景虎の実家である北条軍の越後への侵入を防ぐため、荒戸城を築きました。
また、上田荘一帯の小屋を全て廃し、樺沢城の守りを固めました。
しかし多勢に無勢で、長尾景虎の兄・北条氏照と北条氏邦率いる北条軍に攻め落とされました。
北条軍は上田荘の中心である坂戸城を攻めるため、樺沢城を拠点としました。

しかし、北条軍の援軍として越後に入ったはずの武田勝頼が上杉景勝側に寝返り和睦を仲介。
武田勝頼は領地が徳川家康に攻められたため撤退し、北条軍もなす術もなく時を過ごしました。
そして雪が降り始めると、わずかな兵力を残して関東へ撤退しました。

すると上杉景勝が和睦を破棄して反撃に転じ、上杉景虎を自害に追い込みました。
雪がまだ残る3月には樺沢城、荒戸城も奪還し、北条軍の侵攻に備えたのでした。

1598年、廃城となりました

その後、1582年には武田勝頼が滅ぼされ、信濃国・上野国が織田信長の領地になりました。
そのため、上杉景勝は越中、信濃、上野から織田軍に攻められるリスクが生じました。
本能寺の変の後、上野国北部の沼田を真田昌幸押さえましたが・・・
コロコロと敵になったり味方になったりで、この辺りの緊張は解けなかったと思われます。
沼田の地も真田昌幸と北条氏政が争ったため、どっちが勝っても安心出来ませんでした。

その北条氏政は豊臣秀吉に滅ぼされましたが・・・
上杉景勝は、伊達政宗と徳川家康監視のため、会津へ移されました。
この時に樺沢城は廃城になったものと思われます。


所在地:新潟県南魚沼市樺野沢

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