本栖城/山梨県南都留郡富士河口湖町 | なぽのブログ

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お休みヒマだ~、どこ行こう?
・・・そうだ、お城!で始まった城跡巡り。
ふらっと訪ねた城跡を紹介します。


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本栖城は、青木ヶ原樹海の片隅にありました。
訪問日は2015年4月25日です。

【写1】本栖城

とはいっても、樹海を彷徨いながらの登城ではありません。
城跡は国道沿いの山にあるので、遭難の心配はありません。
ただこの道は、全般的に路肩に余裕がありません。
登城口のちょっと北のここにしか車やバイクを停められません。

【写2】本栖城

車がビュンビュン走る脇を恐る恐る南へ歩くと、こんな場所があります。
ここが本栖城跡への登城口です。
道端が空いているように見えますが、土が柔らかいのでここに停めるのはやめましょう。

【写3】本栖城

上の写真で奥に見えた白い板がこれです。
城跡の案内がバッチリありますラブラブ

【写4】本栖城

角度を変えて見るとこんな感じです。
国道の下を遊歩道が通されています。
左の山中へ上がる道が登城路です。

【写5】本栖城

登城路はおおむねこんな感じです。
生えている木はブナ科なので、夏にはカブト虫なんか居そうな感じです。
ということはスズメバチも出そうなので、秋の登城はやめた方がよさそうです。
さらにブナ科の木にはドングリがなるので、熊も居るかもしれません。
熊よけグッズは必ず持っていきましょう。

【写6】本栖城

さて、登城口から15分程登った所で、先の方に何やら案内が見えます。
遠目にも地面が窪んでいる様子が見えるので「堀切様だ恋の矢」なんて思いましたが・・・

【写7】本栖城

案内標柱には「竪堀」と書かれていました。

【写8】本栖城

脇の斜面を見たらこんな感じです。
・・・これ以上喧嘩売るのはヤメときますw

【写9】本栖城

すぐ先にも同じような所があります。
敢えて本名を伏せてますw

【写10】本栖城

こちらの脇の斜面はこんな感じです。
さっきの標柱は、こっちに立てた方がよかったかもしれません。

【写11】本栖城

2つ上の写真の左上の方にちょこっと写っていましたが・・・
ここから先には、こんな感じの溶岩を積んだ石垣が見られます。
この城ならではのチャームポイントですねラブラブ

【写12】本栖城

いくつかの堀切を越えた先は、こんな感じのかなり長い土橋になっています。

【写13】本栖城

その脇に見えている黒いヤツの正体は、さっきもあった溶岩の石垣です。
土橋の形状を維持するために積まれているように見えます。

【写14】本栖城

その先の斜面を登り切ると、かなり広い場所に出ました。
ここが主郭で、登城口から25分で到着しました。

【図】本栖城

さっきの竪堀の標柱もそうですが、上の面が地図になっています。
自分が今どこに居るのかわかるので、これは大変助かります合格
(右下の方位は、私が写真に書き込みました)

【写15】本栖城

主郭は山上を平らにして、かなり奥まで続いています。

【写16】本栖城

その一番奥にある「のろし台」です。
確かに周りと比べるとちょっと高いのですが、特に展望が良い訳ではありません。
でも、ここで城キチの勘が何かを感じとりました。
「・・・もしこれが土塁なら、この裏にはきっとアレがあるハズ」と。

【写17】本栖城

そう思ってのろし台の右側から裏を覗き込むと、細い稜線が見えました。
この稜線、何だか不自然に下がって見えますよね?

【写18】本栖城

のろし台の左側には、こんな感じで虎ロープが張られています。
案内図ではのろし台の奥にも道が通じていたっけ・・・

【写19】本栖城

という事で、のろし台の裏側です。
足場の悪い細い稜線上なので、普通に撮るとこれが限界です。

【写20】本栖城

そこでiPhone様にご登場頂き、パノラマで撮りました。
狭くて広角レンズでも収まらない所では重宝します合格
右側がのろし台です。


◆歴史◆

武田氏の城でした。

築城年代は不明ですが、甲斐守護・武田氏により築かれたそうです。
地図で見ると、国道が東西南北から来て交わっています。
昔からここは交通の要衝だったようです。
すぐ下を走る国道139号は、おおむね中道往還に沿っています。
中道往還は、甲斐と駿河を結ぶ3本の道の真ん中だったことが名の由来だそうです。

1582年、渡辺因獄佑が本栖城を守りました。

渡辺因獄佑は「わたなべひとやのすけ」と読みます。
もとは武田家臣で、『畑昌方書状』では塩の運搬をしていた事が記録されています。
渡辺氏は土豪集団である九一色衆に属し、富士山北麓の御師もしていたそうです。
「御師」をググると、大雑把に言うと道案内や参拝・宿泊の世話をしていたようです。
ひと言でいえば、現地の観光ガイドさんといった所でしょうか。

武田勝頼攻めの際、徳川家康は渡辺因獄佑に甲斐への道案内をさせ、家臣に取り立てました。
本能寺の変の直後にあった天正壬午の乱では、本栖城の守備を渡辺因獄佑にさせています。
すぐ東の郡内地方が後北条軍により制圧され、本栖城にも攻め寄せて来ました。
この時は徳川家康が援軍を送り、青木ヶ原丸尾(ちょっと東)で撃退しています。

1590年、渡辺因獄佑が武蔵国入間郡矢加賀村へ移りました。

徳川家康が関東へ移されると渡辺因獄佑も従い、武蔵国入間へ移りました。
この時に役割を終え、本栖城は廃城になったものと思われます。
渡辺因獄佑はこの翌年に没しましたが、子が本栖に戻って来たようです。
渡辺家はその後、1722年に無嗣断絶するまで本栖の番人を務めたそうです。


所在地:山梨県南都留郡富士河口湖町本栖

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