なぽのブログ

お休みヒマだ~、どこ行こう?
・・・そうだ、お城!で始まった城跡巡り。
ふらっと訪ねた城跡を紹介します。


テーマ:
長岡城は遺構の殆どが失われてしまったお城です。
訪問日は2015年12月29日です。

【写1】長岡城

長岡城の城址碑が、国道267号から東に入った所にあります。
目印はパチンコ屋さん・・・じゃなくて、その脇にある標柱です。
パチンコ屋さんを目指して行くと、その脇の電柱に寄り添って案内の標柱があります。
写真の黄色で囲んだ所です。
パチンコ屋さん、目立ちますね。
目立たないパチンコ屋さんって、聞いたことないですけどw

【写2】長岡城

これがその案内の標柱です。
ここもかつては城域だったので、ここに城址碑でも良かったような気もしますが・・・
奥に建てちゃったものの、忘れ去られそうになり案内を付けたのでしょうか。
標柱には「長岡城跡の碑」と書かれていて、これがその代わりのようにも見えます。
でも、この裏側にちゃんとこっそり奥を指す矢印がありますw

【写3】長岡城

その矢印に従って奥へズンズン進むと、ここに行き当たります。
なんだかとっても冬向きな光景が広がっています。
城址碑どこだ?と一瞬ひるみますが、真正面の奥にちょびっとお墓っぽいのが見えます。
とりあえずそのまま真っすぐ進んでみました。

【写4】長岡城

これが上の写真でちょびっとだけ写っているお墓のような石碑です。
周りはガッツリ藪に覆われていますが、たまに訪ねる人があるのでしょうか。
辛うじて草の間から見えている感じです。

【写5】長岡城

とりあえずゲット(σ・∀・)σと撮影。
石碑には「長岡城戦歿者慰霊碑」の文字が彫られていました。
とりあえず「長岡城」の文字が入った石碑でしたヾ(*´∀`*)ノ
誰もまだ紹介していない遺構は無いかと周囲を見回しましたが・・・

【写6】長岡城

石碑の裏の山林をちょっとのぞくと、すぐ先を川が流れていました。
川の位置が変わっていなければ、ここは城域の端っこということになります。

【写7】長岡城

振り返って陸地側を見ると、製材工場となっています。
この写真の右側には目印にしたパチンコ屋さんがあり、遺構の期待度はゼロでした。
ちょっと南側の窪んだ地形が堀跡かと思いましたが、深い草に覆われ何も見えず。
一応最低限の努力だけしてこの場を去りました。

しかし、衝撃の事実が・・・
城址碑がすぐ近くにありながら、気付いていませんでしたあせる
「長岡城跡」と彫られた石碑が別にあったようです。
場所は先ほどの石碑の2、3メートル左側。
某サイト様の写真では周りの草が刈られ、城址碑脇の木もまだ苗木でした。
どうやら本物の「城址碑」は、年月とともに藪に呑み込まれてしまったようです。

あとは遺構ですが『日本城郭体系』によると、南側の山林内に僅かばかりあるようです。
下の地図で説明すると、マークの南側が南に出っ張ったようになっています。
この先端部に土塁が一部残っているそうです。
石碑のすぐ右脇にも浅い堀切があったそうですが、全く気付いていません。
今後ここを訪ねる方は、是非そちらにも注目してみて下さい。


◆歴史◆

鎌倉時代に大前氏により築かれたと考えられています。

ググってもサッパリ出て来ませんが、薩摩在国司・大前氏が築いたと考えられています。
これは某サイト様に載っていた案内標柱の脇に書かれていますが・・・
現在の案内標柱は新しくなったのか、説明文はありません。

大前氏は「おおくま」と読み、平安時代から薩摩の在国司を務めた有力氏族です。
祁答院の国府を中心に勢力があり、鎌倉時代にも御家人として存続しました。
大前氏の名はいつの間にか歴史から消えますが、ググってみると南北朝時代のようです。
東郷氏を調べていると、1358年に大前道超が没した時にその遺領を継いだとあります。
大前氏の後に祁答院氏が本拠とした虎居城でググっても何も出て来ませんでしたが・・・

祁答院氏の城となりました。

大前氏が滅んだ後は、祁答院氏が祁答院を支配するようになりました。
「祁答院氏が祁答院を」って、何だか不自然な言い回しですが・・・
東郷氏同様に、領地として与えられながら、大前氏が居座っていたためです。
その大前氏が滅びて、やっと名前と領地が一致するようになったのだとか。

肝心の長岡城については、ググってもサッパリ何も出て来ませんでした。
しかし、某大聖典に「祁答院重貴が家のもつれから長岡城に住した」とありました。
「家のもつれ」が何なのかとても気になりますが・・・w
祁答院氏第12代当主ではありますが、この人物についてはググっても無しのつぶて。
年代的には島津勝久、島津実久、島津忠良が三つ巴を演じていた頃の人物です。

この争いがまた面白いので、書き始めるとキリがありません。
ザックリ書くと、「昨日はあっち、今日はこっち、明日はあっち」に味方するという感じ。
とにかく、島津各家を中心に離合集散を目まぐるしく繰り返していた時代でした。
この年代の祁答院氏は、大隅国の帖佐にまで勢力を拡大しています。

その祁答院氏ですが、祁答院重貴の孫・良重の代の1566年に領主としては滅びました。
滅んだ理由が「奥様に暗殺された」というのが、何ともアレですが・・・
長岡城は、この時代までは使われていたと考えられています。


所在地:鹿児島県薩摩郡さつま町柏原

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