守山城/静岡県伊豆の国市 | なぽのブログ

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お休みヒマだ~、どこ行こう?
・・・そうだ、お城!で始まった城跡巡り。
ふらっと訪ねた城跡を紹介します。

守山城は、堀越御所の詰め城でした。
北条時政が詰め城にしていた可能性もあります。
訪問日は2014年3月22日です。

【写1】守山城

堀越御所のすぐ南にある守山に、御所の詰め城がありました。その山の麓には北条時政が館を構え、北条氏滅亡後は一族の女性が尼寺を開基しました。堀越御所は館跡にありましたが、中心部は尼寺だったので位置は少しズレていたようです。史跡の密度が異常に濃くて、つい鼻息が荒くなります( ・`д・´)

【写2】守山城

守山城跡への登城路は3つのルートがあり、私は西から登りました。ここが一番楽そうだったので音譜北側からのルートは険しく、あちこちにそれっぽいものがあるそうです。どうせ登るならそっちの方が良かったか・・・(´・ω・`)北条時政館跡のすぐ脇から、山を登る道があります。

【写3】守山城

すぐに斜面を真っすぐ登る階段になります。山城攻めの階段は、膝に来るのですごく苦手です。藪の心配が無いのは嬉しいんですけどねあせる

【写4】守山城

その途中に、こんな感じでかなりまとまった広さの平地があります。どう見てもコレは曲輪ですよね?長い年月が経ったせいか、時代が古いせいか、土塁や堀などは見当たりません。

【写5】守山城

そこからまたもや真っすぐな階段。膝の上げ下げがツライので、つい脇の階段の無い部分を歩いてしまいます。同じような方けっこういらっしゃいます、よね?

【写6】守山城

まっすぐな階段を登り切ると、今度は道が左へ直角に曲がります。突き当りの所には何やら大きな看板が!ついつい「何が書かれているのかな?」と回り込んで見てしまいます。みなさんも裏に何が書かれているのか、気になって回り込みますよね?

【写7】守山城

・・・すっかり文字は消えてしまっていましたけどw

【写8】守山城

と、小さく気分転換をして最後の階段を登り切った所です。ちょっとした平地になっていて、ここも曲輪だったようです。というか、山頂が曲輪でなければ何なのでしょう?w

【写9】守山城

登り切った所から左(北側)は木が伐採されており、展望台が見えました。とりあえず高い所を目指す性分なので、体がそちらへすぅぅっと吸い寄せられました。

【写10】守山城

その途中に段差というか窪みというか・・・痕跡的ではありますが、そんな造形があるように見えました。錯覚の可能性もありますけどあせる

【写11】守山城

守山で一番高い所にある展望台です。山城の展望台では珍しく、周りの木々がちゃんと刈られています。せっかく展望台があっても視界ゼロなんて所は珍しくありません。場所が場所だけに、期待大です。

【写12】守山城

だって、富士山すぐ近くですから恋の矢
東に目を転じれば、韮山城も丸見えです。伊豆の国府を見渡す守山城は、間違いなく要衝ですね!

【写13】守山城

登城路が整備されているのですが、気を付けたいのはやはりコイツ。訪問時はまだ春先なので心配ありませんでしたが、一番怖いのは11月です。スズメバチが近くを飛び回る場合は、巣が近い可能性大です。人を襲う凶暴な蜂ですが、いきなり襲って来ないでまずは威嚇してきます。この威嚇の時に手をブンブン振り回して追い払おうとしたり、巣に近づくと襲って来ます。ブゥゥゥンと羽音を立てて近くをグルグル回って来たら、ゆっくり後退しましょう。


◆歴史◆

麓に北条時政の館がありました。

平安時代には麓に北条氏が館を構えていました。源平合戦の頃は北条時政が源頼朝につき、やがて鎌倉幕府の中枢となっていきます。初めは源頼朝の正室・北条政子の父というだけで、政治的には目立たない存在でした。しかし、1193年にあった曾我兄弟の仇討ちは、北条時政が黒幕だったという説があります。

※曾我兄弟の仇討ち
1193年、富士の巻狩の際に兄・曾我祐成が伊豆の実力者・工藤祐経を殺害。弟・曾我時致は源頼朝を暗殺しようとして失敗し、ともに処刑された事件です。北条時政は曾我時致の烏帽子親で、成功すれば伊豆と幕府の両方が手に入る筈でした。しかし、これはバレませんでした。

北条時政はこの頃から守山城周辺の整備を始めています。1195年には守山の北西麓に願成就院という大規模な寺院を建立しました。運慶の仁王像は1193年から制作が開始されています。・・・曾我兄弟の仇討ちの時に既に本拠地に「願成就」のお寺を建てていたんですねwこの時に本拠地の城砦化を進めているので、守山城も整備されたのかもしれません。

尚、北条時政が鎌倉幕府の表舞台に登場するのは、源頼朝没後の1199年からです。この時は十三人の重臣による合議に名を連ね、大江広元とともに政所別当を務めました。その後は梶原景時や比企能員、畠山重忠らを粛清し、権力を拡大しました。

しかし、子の北条義時や北条政子と対立し、娘婿の平賀朝雅擁立に失敗して失脚しました。以後は北条館からは出ずに余生を送り、1215年に世を去りました。こんな感じなので、北条氏では北条義時を初代執権と見なしていました。

室町時代には堀越御所の詰め城となりました。

鎌倉幕府が滅んだ後、北条氏の館跡には北条一門の女性が集まり尼寺を建てました。1460年、このすぐ隣に御所が築かれました。室町幕府将軍は反抗的な古河公方を廃し、新たな公方を鎌倉に送り込みました。しかし、古河公方の抵抗に遭って鎌倉には入れず、ココに御所を開きました。これが堀越御所で、足利政知・茶々丸の2代が堀越公方として本拠にしました。

1491年、足利政知が病没すると、茶々丸がクーデターを起こし実権を握りました。茶々丸は廃嫡されており、跡継ぎだった弟を殺して劣勢を覆したのです。しかし、翌年には茶々丸が殺した弟の兄(茶々丸の異母弟)足利義澄が将軍となりました。まさかのどんでん返しってあるんですねw足利義澄は伊勢宗瑞に命じ、母と弟の仇である茶々丸を討伐させました。伊勢宗瑞に攻められた茶々丸は、守山城に籠って抵抗したそうです。しかし、守り切れなかった茶々丸は、4年後には甲斐または伊豆国深根で討ち取られました、

後北条氏も守山城を使用したと考えられています。

茶々丸を討って伊豆を手に入れた伊勢宗瑞は、韮山城を新たな居城としました。守山城は韮山城の西1.5kmの所にあり、韮山城が丸見えの場所でした。また、狩野川沿いにあり西側の守りの押さえとして守備兵を置いたものと考えられています。

1590年、豊臣秀吉の軍勢が陣を敷きました。

北条氏政討伐のため、豊臣秀吉は全国の兵を集めて小田原を攻めました。西側から小田原に攻める際、はじめに関門となったのが山中城と韮山城でした。
北条軍は伊豆や駿河東部の兵力をこの2つの城に集中させ、守りを固めていました。韮山城を攻めた豊臣軍は激しい抵抗に遭い、力攻めから兵糧攻めに戦術を変更しました。この韮山城包囲の際に、守山城にも陣を敷いたと伝わります。北条氏滅亡後は、城としては使われなくなったものと思われます。


所在地:静岡県伊豆の国市寺家

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