葛山館/静岡県裾野市 | なぽのブログ

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お休みヒマだ~、どこ行こう?
・・・そうだ、お城!で始まった城跡巡り。
ふらっと訪ねた城跡を紹介します。

葛山館は土塁がとてもよく残っています。訪問日は2014年9月20日です。

【写1】葛山館

葛山氏館の前の道です。道端に立派な案内図がありますが、その反対側は鬱蒼とした木々。もしかしたら藪?なんて予感が、頭の片隅をよぎりました。

【写2】葛山館
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道端の案内図です。葛山館と葛山城は、葛山氏の平時の居館と詰城がセットで残っている貴重な遺構です。この案内図の背後に見える山が葛山城なので、図と城跡を並べて見られますラブラブ

【写3】葛山館

木々の間の道を進んで館跡に入ると、中は畑でした。かなり広いお屋敷ですね!

【写4】葛山館

この広い空間を、高さ3m程の土塁がグルっと囲んでいます。内側は木が伐採されており、綺麗に土塁が見える部分がかなりあります。出来たら外側も・・・というのは贅沢な望みでしょうか?

【写5】葛山館

訪ねたのが9月20日ということで、丁度彼岸花が見頃を迎えていました。一面真っ赤に咲いていると圧巻です合格もうちょっと早く書いた方が良かったですねあせるあせるあせる


◆歴史◆

葛山氏の館でした。

名前の通りですがw葛山氏で調べると大森氏の庶流ですが、大森氏で調べると葛山氏は登場しません。地理的には大森氏の隣近所なので、大森氏の庶流だとは思いますが。源頼朝に従って活躍し、葛山一帯を安堵されています。館が築かれたのはこの頃でしょうか。

室町時代に入ると、葛山氏は足利将軍家に直接仕える奉公衆となりました。初期はまだ今川家臣ではなく、幕府の命令で今川軍とともに行動することがありました。伊勢盛時とは特に関係が深く、娘を嫁がせたり次男を養子に迎えて家督を継いだりしています。通字である「氏」はこの時からなんでしょうね。伊豆や相模での伊勢軍の活動に、葛山氏も協力しています。これは幕府の命令ではなかったでしょうねwしかし、葛山氏のその後は次第に今川家の家臣化していきました。

1568年、葛山氏が領地を失いました。

武田信玄が駿河へ攻め込んだ際、葛山氏は今川家を離れ武田方に寝返っています。そして、武田軍の穴山梅雪とともに、今川軍を助けた富士郡にある北条軍の城を攻めました。そのため、逆襲に転じた北条軍により領地を追われ、武田方の富士郡へ逃れました。

1571年、武田軍が反撃に転じて領地を取り戻しました。

一時は駿河から撤退した武田軍でしたが、1569年から再び駿河へ侵攻しました。武田軍は北条軍と戦って駿河東部の拠点・深澤城を攻略し、葛山領もこの時に奪い返しました。

1573年、葛山氏元が武田信玄により処刑されました。

葛山氏元は、北条氏政への内通を疑われて信濃国諏訪で処刑されました。これが「天正元年の2月」とWikipediaには書かれていますが・・・天正元年は1573年の8月からなんですよねwこういう事もあるので、Wikipediaは鵜呑みには出来ません。かなり参考にはなりますけど。この1573年2月というのは、武田信玄が三河へ侵攻して野田城を攻め落とした頃です。北条氏への内通を疑われて処刑されたのは、武田信玄の病状を密告したのでしょうか?

武田信玄は葛山氏元の娘を六男・信貞に嫁がせ、葛山氏の家督を継がせています。しかし、葛山信貞は10代前半のため甲府に住み続け、葛山は御宿友綱が代わりに治めました。御宿友綱は葛山氏元の甥ですが、若い頃から武田信玄に仕えていました。武田信玄の信頼も厚く、その侍医を務めたとされている人物です。

1582年、葛山氏が滅びました。

武田勝頼が織田信長により滅ぼされ、葛山信貞も甲府善光寺で自害しました。葛山信貞は甲府に居たので、葛山館には御宿氏が住んでいたかもしれませんが・・・御宿氏はその後、北条氏政、徳川家康に仕え、旗本として存続しています。


所在地:静岡県裾野市葛山

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