蒲原城/静岡市清水区 | なぽのブログ

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お休みヒマだ~、どこ行こう?
・・・そうだ、お城!で始まった城跡巡り。
ふらっと訪ねた城跡を紹介します。

蒲原城は富士川以西を守る要のお城でした。訪問日は2014年9月14日です。

【写1】蒲原城

蒲原城の入口は写真左側にあります。赤い消火栓?っぽい物の向こう側に入口があります。

【写2】蒲原城

その入口から見た蒲原城です。手前側の空き地にクルマを停められます。ここの平地も曲輪の跡なのでしょうか。

【写3】蒲原城

民家の脇を通り過ぎると、道の先に2枚の説明板が見えます。図や説明文のある城跡は、後で色々調べたりパクったりするのに大変助かります合格・・・つい心の声がw

【写4】蒲原城
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で、早速パクります。今回のルートは図の右下の東曲輪から登るようです。バイクで走って来た舗装道は、昔は無かったようですね。さっきの平地はやはり東曲輪の跡のようです。

【写5】蒲原城

登り始めてすぐに、こんな感じの所があります。ここは門の跡でしょうか。道が狭くなっており、大人数で一度に通れないようになっています。

【写6】蒲原城

途中で道が分岐していますが、まずは主郭から。登り詰める一歩手前の風景です。右側の城塁に沿っており、上から攻撃されたらひとたまりもありません。城を攻める側と守る側の視点に立って訪ねるクセがついてきました。ちゃんと前を見ないと危ないので、気を付けましょうねあせる

【写7】蒲原城

主郭(図の南曲輪)です。一番高い所にあり、かなりの広さです。奥には社がありますが、全般的に草がちです。端の方も見てみましたが、土塁は見当たりませんでした。

【写9】蒲原城

海側を見た所です。由比海岸がバッチリ見えます。ここは台風のたびに東名高速が通行止めになる難所です。その先にはさらに断崖が海に迫った超難所の薩埵峠があります。ここにお城を築いた理由がよくわかる風景です。

【写10】蒲原城

一番奥の社から下を見た所です。土塁に囲まれた綺麗な曲輪が見えます恋の矢

【写11】蒲原城

北曲輪の手前にある空堀です。山城ですから、やっぱりこれが無いと面白くありません!!無くてもキャッキャとはしゃいでいるのは内緒です。

【写12】蒲原城

北曲輪を入口から見た所です。右の登城路側には、鹿の角のようなものが並んでいます。これだけびっしり並んでいると、侵入するのが難しいですね。中には必死で守る兵士が、鉄砲や弓で攻撃してくるでしょうから。・・・すっかり妄想の世界にどっぷり浸っていますwコンクリート製ではありますが、とても良い雰囲気を出しています。

【写13】蒲原城

反対側から見た北曲輪です。土塁に囲まれており、物見櫓もあってとてもいい感じです。奥の木々の上にあるのが先ほど訪ねた南曲輪で、社の屋根が見えています。ここでちょっと冷静になると、ココに物見櫓があっても視界が・・・w南曲輪の端っこには、こんな感じのものがあったかもしれませんね。


◆歴史◆

蒲原氏のお城でした。

蒲原氏は藤原南家流工藤氏の一族で、この辺りに勢力がありました。ただ、工藤一族の蒲原氏は今川範国が滅ぼし、その子・今川氏兼が蒲原の領主となりました。その時期が駿府同様?なのですが・・・今川氏兼は1329年生まれで1398年没なので、その間であることは間違い無いと思います。兄・今川了俊とともに九州に下向した1370年には、蒲原姓だったという記録もあるようです。蒲原城は、この今川系の蒲原氏により築かれたと考えられています。

1536年、河東の乱で今川軍の最前線となりました。

今川家では家督争い(花倉の乱)があり、今川義元が勝利しました。北条氏綱は今川家と同盟関係にありましたが・・・今川義元が、北条氏綱と敵対していた武田信虎の娘を娶り同盟を結びました。これを駿相同盟の破綻と捉えた北条氏綱は、駿河へ侵攻しました。これが第一次河東の乱です。北条軍は富士川より東側を占領し、領地に加えました。花倉の乱で敗れた福島氏が北条氏を頼る素地があった訳ですね!

1545年、今川義元が反撃に転じました。

富士川以東を北条氏に奪われていた今川義元は、駿河東部奪還の兵を挙げました。北条氏康に和睦を持ち掛けつつ、不調に終わると今川軍は攻撃を繰り返しました。今川義元は武田晴信や関東管領・山内上杉憲政と連携し、北条軍を挟み撃ちにしました。この時、両上杉軍と古河公方は連合軍を結成して、北条方の拠点である河越城を包囲しました。北条軍は駿河では形勢が悪く、ついには興国寺城以外は今川軍に落とされました。北条氏康はここで腹をくくり、今川義元と和睦しました。・・・劣勢だった北条軍が関東連合軍に大勝した河越夜戦は、この直後の事です。

1560年、北条軍が入りました。

桶狭間で今川義元が討死した後、北条軍が駐屯しました。これは武田信玄が駿河へ攻め込む疑念が生じたためとされます。

1568年、武田軍が駿河に攻め込みました。

今川氏真との同盟を破棄した武田信玄が、駿河に攻め込みました。武田軍は駿府をわずか1日で陥落させましたが・・・今川家との同盟を大義名分にして、北条軍も攻め込んで来ました。武田軍と北条軍は薩埵峠で対峙しましたが、双方兵を引きました。蒲原城には北条幻庵の子・北条氏信・長順兄弟が入り、城を改修しました。

1569年、武田軍の城となりました。

一時は甲斐へ退いた武田信玄が、再び駿河に攻め込みました。蒲原では三度戦があったようで、その最後に蒲原城が落城しました。城を守っていた北条氏信・長順兄弟をはじめ、城兵1000は全滅したそうです。陥落後に入った武田方の城将は定かではありません。

1582年、徳川軍に攻め落とされました。

この時に蒲原城を守っていたのも誰なのかわからず・・・庵原郡一帯は朝比奈信置の領地だったため、その家臣が居たと思います。徳川家康が駿河の主になってからは、地元の蒲原衆が城番を務めたそうです。朝比奈信置は武田勝頼の自害後に、織田信長の命により切腹しました。しかし、その家臣はそのまま徳川家に吸収されたようですね。徳川家康が関東へ移された1590年に廃城になったと考えられています。


所在地:静岡市清水区蒲原

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