小笠山砦/静岡県掛川市 | なぽのブログ

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お休みヒマだ~、どこ行こう?
・・・そうだ、お城!で始まった城跡巡り。
ふらっと訪ねた城跡を紹介します。

小笠山砦は、高天神城を包囲するために築かれた付城の1つです。訪問日は2015年1月11日です。

【写15】小笠山砦
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最初に現地でパクった図をご紹介します。図が有ると説明しやすいですからね合格裏にある説明板に載っているヤツです。登城路は右下から左へ攻めて行きます。

【写1】小笠山砦

まずは麓から。小笠山砦はメジャーなのか、麓に案内が出ています。ここは素直に案内通りに進みます。

【写2】小笠山砦

その突き当りが、城内にある神社の駐車場となっています。訪ねる人が多いのか、かなりの台数が停められるようになっています。もちろん全面舗装路なので、オンロードバイクでもここまで登って来れます恋の矢

【写3】小笠山砦

駐車場から先は徒歩です。あたりまえですけどあせる小笠神社までの道はとても広く、綺麗に整備されています。最後の最後は階段が続きますが・・・

【写4】小笠山砦

ここが、図の右端にある小笠神社です。パッと見では、ここで行き止まりのようにも見えます。

【写5】小笠山砦

ここからが本格的な城域です。社殿などの脇を通る道があり、裏の山中へと続いています。

【写6】小笠山砦

緩やかな坂道に見えますが、そこかしこが凹んでいます。どうやら堀切か何かを、道を造るために破壊した形跡が見えます。

【写7】小笠山砦

道は立派な参道から普通のハイキングコースっぽくなっていきます。その先に白い標柱が見えて来ました。ここからが図中の「御殿」に当たる場所です。

【写16】小笠山砦

標柱があるだけでも\( 'ω')/でしたが、その後ろに堀切ラブラブがありました。スゲー!っておったまげましたが、これはまだ始まりでした。

【写10】小笠山砦

「御殿」の郭の先は、このように土橋状になっています。遺構の土橋なのか、元は堀切だったのかは?です。

【写11】小笠山砦

御殿の先にある④の郭です。ここは厚い土塁に囲まれています。うぉぉぉぉぉ!ってテンション上がりましたが・・・そこにあった説明板は、鳥についてのものでしたヒヨコ

【写12】小笠山砦

そのすぐ脇にあるのが、多聞神社です。社殿自体はそんなに大きくありませんが・・・その裏が!!!!!!!!!!!!!!!なのでした。

【写21】小笠山砦

【写17】小笠山砦

図では「馬出し」と書かれていますが、うねる空堀と土塁がスゴイ迫力でした!ここが一番の見所だと思います。写真の腕が悪く、うまく表現できないのが残念ですあせる

【写18】小笠山砦

ここから城域が南北に分かれます。山頂は最後にということで、まずは南側から攻めました。はじめはこんな感じなのです。

【写19】小笠山砦

途中ちょっとだけヤブっぽい所もありますが、割とすんなり⑥の郭に辿り着きました。外側はちゃんと土塁で囲まれています^^

【写20】小笠山砦

その先はこんな感じ。幅1メートル程の、細っっっそい道?になっています。両脇はゼッタイに10メートル以上はある垂直の断崖。こんな危なっかしい所を通ってまで見に行きたい訳でもないので、ここでUターンです。

【写22】小笠山砦

今度は北側の山頂を目指します。途中こんな感じの所もありますが、割と歩きやすい道が続きます。

【写23】小笠山砦

多分ここが⑤の郭だと思います。ここは北側に土塁が盛られています。

【写24】小笠山砦

その先に白い標柱が見えました。この標柱には国土地理院の文字が書かれています。そのさらに脇には、手書きで「小笠山」と書かれた板が木に括られていました。ということで、ここが一番高い所のようです^^

【写25】小笠山砦

その先はこんな感じでアスレチックのようになっています。たぶんですが、ここが⑤の郭の左側の細くなった所だと思います。

【写26】小笠山砦

更にその先はこんな感じになっています。記憶があいまいで、堀切だったのか?竪堀だったのか???ですあせるでもまぁ、簡単には登らせない構造に見えますよね?


◆歴史◆

1568年、徳川家康により築かれたとされます。

今川義元が討死した後、武田信玄と徳川家康が東西から今川領を浸食しました。この頃は武田信玄と徳川家康に降伏する家臣も多く、今川家は風前の灯でした。そんな中、最後まで忠義を貫いたのが、掛川城の朝比奈朝泰でした。その南には、これまた今川家重臣の遠江小笠原氏の名城・高天神城がありました。この2つの城の丁度真ん中に築かれたのが、小笠山砦でした。ここに一大拠点を置くことで、掛川城と高天神城の連携が絶たれます。そのうちに高天神城の小笠原氏は徳川家康に降り、掛川城の包囲に加わりました。こうして掛川城は降伏し、今川氏真は北条氏政のもとへ追放されました。

1576~81年、高天神城攻めの拠点となりました。

1574年に武田勝頼の猛攻により、高天神城の小笠原氏興は降伏。以後、高天神城は武田軍の遠江侵攻の拠点となっていました。転機はその翌年、長篠の戦で武田軍が織田・徳川連合軍に大敗した事でした。徳川家康はこの機を逃さず、まずは武田軍の諏訪原城を陥落させました。これにより高天神城が孤立し、城を維持することさえ困難になりました。

徳川家康は高天神城の周りに付け城を次々と築き、その中で最大だったのがココでした。徳川軍は高天神城を包囲し、兵糧攻めにしました。武田勝頼は四方を敵に囲まれていたため、援軍を出すことが出来ませんでした。これにより武田勝頼の声望を落とし、武田家臣団の結束を崩す狙いがあったとされます。1581年に高天神城が陥落すると、狙い通り武田家臣の離反が相次ぐようになりました。そしてこの翌年、武田勝頼は織田信長により滅ぼされています。


所在地:静岡県掛川市入山瀬

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