高根城/静岡県浜松市天竜区 | なぽのブログ

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お休みヒマだ~、どこ行こう?
・・・そうだ、お城!で始まった城跡巡り。
ふらっと訪ねた城跡を紹介します。

高根城は中世城郭の建物が復元されています。別名・久頭合城、葛郷城など。訪問日は2010年6月12日です。

【写】高根城①
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高根城の図です。細尾根に堀切を入れた構造がよくわかります。普段何も無い山城も、だいたいこんな感じです。

【写】高根城②

まずは大手門です。しっかり通せんぼしています!

【写】高根城③

本曲輪とはいっても、大して広くはありません。建てられているのは、2棟だけです。でも、この木の柵イイですねラブラブ

【写】高根城④

本曲輪から見た二の曲輪と三の曲輪です。山の中でも、こんな感じの地形を見る事がよくあります。でも、木が沢山生え、建物も何も無い所ばかり。こんな風になってたんだ!って、妄想エネルギー満タンになります音譜

【写】高根城⑤

そして、今後は逆に二の曲輪から見た本曲輪です。やはり流石というか、守りが堅そうですね!遺構がしっかり残っている城跡も大好きですが、こういうのも大好きですラブラブ


◆歴史◆

1414年、奥山貞則により築かれました。

奥山氏は井伊氏の庶流で、奥山城を本拠としていました。地図で見ると、高根城から随分離れていますが・・・それだけ奥山氏の勢力圏が広かったということでしょうか。城を築いた奥山貞則は、1339年に千頭峯城で宗良親王のもとで戦った奥山藤朝の子とされます。この時の戦で井伊氏・奥山氏らの南朝方は、仁木義長・高師泰らの北朝方に敗れました。宗良親王は諸国流浪の末、1344年に信濃国大河原で落ち着きました。

高根城は秋葉街道(現・国道152号)沿いにあり、大河原へまっすぐつながっています。奥山貞則が高根城を築いたのは、尹良(ゆきよし)親王のためとされます。尹良親王は宗良親王の子で、母親は井伊道政の娘です。南北朝合一後も吉野に留まり、その後は東国各地で南朝方の残党を集めて蜂起しました。その尹良親王が奥山氏のもとに来たのだそうです。奥山貞則は水窪川沿いに仮宮を建て、その護衛のため高根城を築いたのだそうです。

ただ・・・
『浪合記』などでは、高根に来た事が書かれていません。尹良親王は信濃国の千野頼憲を頼った後、三河国足助へ移る際に襲われ世を去っています。高根に居たとしても、そんなに長い期間では無かったのでしょうか。1424年にあった尹良親王最期の浪合合戦でも、奥山氏の名は現れません。

1569年(1572年?)、信州遠山氏に攻め落とされました。

この時の城主は奥山貞益です。年代的には徳川家康が遠江へ侵攻した年です。奥山氏の元には、徳川家康・今川氏真の両者から所領安堵の書状が届いていました。

先手を打ったのは徳川家康で、別所城の伊藤貞次に奥山氏の鶴ヶ城を攻めさせました。鶴ヶ城は落城し、城主・鶴山大磯之丞は自害しました。

しかし、これを受けて動いたのは信濃の遠山遠江守・土佐守兄弟でした。この時、奥山貞益の弟・奥山定茂も一緒に高根城を攻めています。遠山氏は武田信玄の家臣で、奥山定茂の妻の実家でもあります。高根城を得た武田信玄は、遠江侵攻の拠点として改修を加えました。現在復元されているのは、武田信玄により改修された頃の状態だそうです。

武田家の衰退により廃城となります。

1575年、長篠の戦で武田軍が織田・徳川連合軍に大敗を喫しました。この時、奥山定茂も武田方として参戦していたそうです。武田勝頼の勢力が大幅に低下すると、徳川家康は遠江の武田方の城攻めを開始しました。奥山定茂もそのターゲットとなり、居城の水巻城はあっさり落城しました。城を追われた奥山定茂は、信濃へ逃れたと伝わります。

高根城のその後がサッパリわかりませんが・・・遅くとも、1582年の武田家滅亡までには廃城になったと思われます。

平成になり発掘調査が実施され、復元されました。

1993年に整備計画策定委員会が発足し、発掘調査が実施されました。この調査により、城内道を含めた城の様子が明らかになりました。発掘調査の成果をもとに、2001年に復元。武田氏が改修を加えた頃の姿に復元されました。

高根城公園として整備されましたが、入場無料。常時解放されており、朝早く訪ねてもちゃんと見ることができます!ただ、建物には施錠されており、ガイドの同行が必要だそうです。


所在地:静岡県浜松市天竜区水窪町地頭方

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