堀川城/静岡県浜松市北区 | なぽのブログ

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お休みヒマだ~、どこ行こう?
・・・そうだ、お城!で始まった城跡巡り。
ふらっと訪ねた城跡を紹介します。

堀川城は、徳川家康には珍しい黒歴史の現場です。訪問日は2014年8月7日です。

【写】堀川城①

田んぼの真ん中を突っ切る道の脇に、こんな感じで寂れた公園のような場所があります。道端に白い説明板ってことで、ここが堀川城跡です。

【写】堀川城②

門の所に表札っぽいのあるなって、見てみたら・・・こんな表札のお家があったら、きっと飛び込みのセールスマンとか来ませんよね?w

【写】堀川城③

恐る恐るその「首塚」とやらに入ってみました。草ボーボーとまではいきませんが、いつも人が居るという感じではなし。ビミョーな空気に包まれています。

【写】堀川城④

真ん中にある城址碑です。下にデッカく「古戦場」って彫られています。果たして「戦」になっていたのかどうか?ですが。


◆歴史◆

1568年、徳川家康が遠江に侵攻しました。

1565年に三河を平定した徳川家康が、1568年頃から遠江に攻め込むようになりました。徳川家康が初めに手中にしたのは、三河と接する湖西ではなく、もっと北の井伊谷でした。井伊谷は来年大河ドラマの舞台となる場所です。井伊家は今川氏真によりズタボロにされており、家中が今川派と反今川派に割れていました。徳川家康は反今川派に加勢することにより、井伊谷の井伊氏を味方に引き込みました。

この年の末、すぐ東の刑部城が徳川軍に攻め落とされました。徳川軍はそのまま東へ進み、曳馬城(後の浜松城)を攻略。勢いに乗ってさらに進み、今川氏真が籠る掛川城を攻めました。徳川軍は一旦和睦して、三河へと引き上げました。

その帰路、徳川家康が通り掛かると、農民達が堀川城に立て籠もっていました。普通ならそのまま攻め落としちゃえ!ってなると思うのですが・・・その時の兵力が少なかったのか、徳川家康は渡辺図書の策に従って軍勢を二手に分けました。徳川家康は、雑兵の姿で先陣17騎とともに通り過ぎました。後陣は200人程で、堀川城に籠っていた農民達はこちらに襲い掛かりました。

1569年、徳川軍により堀川城が攻め落とされました。

年が明けた3月27日、徳川家康は3000の兵を率いて堀川城を攻めました。この年の2月9日に掛川城を攻略しており、残る今川方はここいらだけになっていました。堀川城は周りを水で囲まれた天然の要害ですが・・・それは潮が満ちている時だけで、潮が引くと要害でも何でもなくなってしまいます。徳川軍は干潮の時に攻め込み、城に籠っていた老若男女1000人を「なで斬り」にしました。さらに徳川軍は近くの堀江城を攻め、1か月後に和睦して仕置きを終えた。。。ハズでした。

これだけでも十分に黒歴史ですが、さらに続きがあります。

徳川家康による詮議は厳しく、その後半年で700名余りの住民が捕えられました。すると、捕えた住民全員を斬首し、その首を都田川の堤に並べて晒しました。3月と9月に殺されたのが1700名程で、この辺りの人口の半数以上だったそうです。前年に命からがら通った事が相当悔しかったのでしょうか・・・城跡にあった「首塚」というのは、ここに由来するのですね。


所在地:静岡県浜松市北区細江町気賀

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