佐久城/静岡県浜松市北区 | なぽのブログ

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お休みヒマだ~、どこ行こう?
・・・そうだ、お城!で始まった城跡巡り。
ふらっと訪ねた城跡を紹介します。

佐久城は武田流?という位に立派な馬出しがあります。訪問日は2014年8月7日です。

【写】佐久城①

佐久城は、亥鼻湖東岸の別荘地っぽい住宅街の奥にあります。そのドン詰まりのすぐ手前のココが、城跡への入口です。

【写】佐久城②

上の写真の左端に写っている白い建物の奥に、2枚の大きな説明板が見えます。これが無かったら「どこだ???」ってなりました。

【写】佐久城③
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説明板に載っている図です。やはり、真ん中に描かれている「馬出郭」が気になりますラブラブこういう図があると、ブログが書きやすくて助かります合格

【写】佐久城④

説明板の脇からいよいよ城内へ突入です。登城路は、図にあった馬出の外側の土塁脇を進みます。

【写】佐久城⑤

外側からは木々が茂っていて見えませんでしたが・・・登城路を進むと、馬出の内外の堀・土塁がよく見えますヾ(*´∀`*)ノ

【写】佐久城⑥

馬出の外側の堀です。堀好き(と最近ようやく自覚)には堪らない立派な堀です恋の矢

【写】佐久城⑦

馬出の内側です。外側にちゃんと土塁が付られています。周りがガッツリ住宅街になった中、よくここまで完璧に残してくれたもんです。

【写】佐久城⑧

馬出から城内を見た所です。深い堀に細い土橋が付けられています。馬出を制圧されても、一気に押し込めませんね!

【写】佐久城⑨

今度は反対方向から見た所です。馬出がちゃんとブラインドになっていますラブラブどう見ても武田流ですよね?

【写】佐久城⑩

本郭は堀に沿って土塁が付けられています。こういう所がちゃんと残っているのがグッド!です恋の矢

【写】佐久城⑪

陸側は土塁がありますが、湖側はありません。もともと無かったのか、眺めを良くするために取り払われたのかは?です。

【写】佐久城⑫

湖側に眺望が利くのは、やはり湖上の水運を掌握するためだったのでしょうか。夕焼けの名所になりそうな所ですねラブラブ

【写】佐久城⑬

そして、やっぱり城跡にはこれが欲しいですよねドキドキ


◆歴史◆

1348年、浜名清政により築かれました。

浜名氏は、鎌倉時代から浜名湖北岸一帯を支配した有力国人です。その祖先は鵺退治で有名な源頼政とされ、対岸の鵺代に土着して浜名氏を名乗りました。

室町時代に入ってすぐ、足利尊氏が後醍醐天皇と対立して南北朝時代に突入しました。浜名清政は足利尊氏に従って南朝方と戦いましたが・・・戦いに敗れた浜名清政は、一時所領を奪われて遠江を離れました。

しかし、1339年に仁木義長・高師兼らが南朝方の井伊氏・奥山氏と戦いました。浜名清政も高師兼に従い、奥山氏の千頭峯城攻めに参戦。戦いは北朝方が勝利し、浜名清政は旧領に復帰しました。浜名清政は、新たな本拠として佐久城を築きました。浜名氏は将軍に直接仕える奉公衆となり、代々将軍から一字を与えられていました。

1487年、浜名政明が将軍・足利義尚による近江佐々木氏討伐に参戦。
1506年、浜名氏が今川氏親に従い松平長親討伐に参戦。
1560年、今川義元が桶狭間の戦で討死。

1569年、浜名氏が滅びました。

浜名氏は今川義元が討死した後も、今川氏真に仕え続けました。そのため、1568年に井伊氏を家臣に加えた徳川家康が攻めて来ました。これにより、浜名氏の領地は徳川家康に完全に囲まれました。浜名頼広はそれでも抵抗する姿勢を見せ、武田信玄に仕官しようと甲斐へ赴きました。あの立派な馬出しは、その心意気の現れでしょうか・・・城主不在の状態で徳川軍に攻められ、一族の大矢政頼が守りました。しかし、年が明けると徳川軍の降伏勧告にしたがい開城しました。浜名頼広は武田信玄に仕官を断られ、以後消息不明となります。

1571年、本多信俊が城主となりました。

遠江を制圧した徳川家康は、浜名の地を本多信俊に与えました。本多信俊は豪勇の士で、『神君一宮砦後詰め』の逸話で知られる武将です。それだけ徳川家康からの信任が篤かった、ということでしょうか。今川氏真が滅びると、武田信玄が今川氏の遺領を狙って南下するようになりました。すると、徳川家康とは利害が対立する訳で・・・この頃から遠江や奥三河へたびたび攻めてくるようになりました。

そして翌年秋、武田信玄が2万5千の大軍で遠江へ攻めて来ました。武田軍は三方ヶ原の戦いで徳川軍に大勝しましたが・・・その後の進軍はゆっくりで、武田軍はすぐ東の刑部で越年しました。

年が明けると進軍を再開し、三河の野田城を攻めました。その際、佐久城を避けるルートで進んだそうです。地図で見れば、刑部から野田へは佐久の脇を通れば近いのですが・・・野田城を降した武田軍は、さらにその場で2か月帯陣した後、甲斐へ退却しました。その途上で武田信玄が世を去ったとされます。佐久城を攻めると激しい戦になることが予想され、病状に障るのを恐れたのでしょうか。

1583年、本多信勝が家督を継ぎ、廃城となりました。

本多信俊が世を去り、その子・本多信勝が家督を継ぎました。

武田勝頼が滅ぼされた後、僅か3か月程で今度は織田信長が本能寺の変で斃れました。織田信長の領地になったばかりの甲斐・信濃では、武田旧臣が蜂起し、大混乱に陥りました。徳川家康は、甲斐を任されていた織田家臣・河尻秀隆へ本多信俊を使者として送りました。本多信俊は甲斐は不穏だから、河尻秀隆に美濃へ戻った方が得策と説いたそうです。しかし、河尻秀隆は応じず、本多信俊を殺してしまいました。普通に考えて同盟国の使者を殺すのって、超マズイ気がするのですが・・・河尻秀隆はその後甲斐を脱出しようとしますが、一揆に遭い討死します。

家督を継いだ本多信勝は、東海道近くに新たに野地城を築きました。役割を終えた佐久城は廃城となりました。


所在地:静岡県浜松市北区三ヶ日町都筑

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