奥平城/群馬県高崎市 | なぽのブログ

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お休みヒマだ~、どこ行こう?
・・・そうだ、お城!で始まった城跡巡り。
ふらっと訪ねた城跡を紹介します。

奥平城は三河に移った奥平氏発祥の地です。
訪問日は2014年11月23日です。

三河の奥平氏のお城について書いた時に、こちらについても調べました。こちらもまだ書いてなかったので、勢いで!ということであせる

【写真】奥平城①

東側から見た奥平城です。目の前を川が流れており、堀代わりになっています。

【写真】奥平城②


上の写真の左端に、ちょっとだけ白いのが見えています。それがここです。手作り感たっぷりですが、それもイイですね合格

【写真】奥平城③

いざ!と登ったのがココです。畑ですw特に凸凹もなく真っ平。まぁ、古い時代の城跡ですからね。

【写真】奥平城④

畑の更に奥に何か無いか?と目を光らせてみました。残念ながら、光りませんでしたけど・・・何やら手招きするように、竹藪の一角が開いています。

【写真】奥平城⑤

堀の1つでも拝めれば、と突入。御覧の通りなので、進めなくはなさそうです。もう日が暮れ掛けていたので、これ以上は進みませんでした。


◆歴史◆

奥平氏の城でした。

奥平氏の始まりには赤松氏説と児玉氏説とがあります。赤松氏説では、赤松則景が上野国甘楽郡奥平郷を領地として、名乗ったのが始まりとされます。児玉氏説では、児玉党の氏行が奥平則景の養子になったのが始まりとします。いずれにしても、赤松則景がここを領地とし、奥平氏行が居たことは共通するようです。

家紋

で、よく児玉党説で書かれている家紋が気になったので調べてみました。言葉だけで想像できるのは、一部の超オタだけですからwついでに、祖先が奥平氏の弟とされる小幡氏の家紋も並べてみました。軍配が共通って、こういうことだったんですネ!赤松氏のだけ蚊帳の外って感じがします。

8代目の奥平貞俊が三河へ移りました。

応永年間(1394~1428年の間)に、8代目の奥平貞俊が三河へ移りました。この頃は鎌倉公方が足利満兼→持氏、関東管領は上杉憲定→氏憲(禅秀)→憲基→憲実でした。当時はやんちゃな鎌倉公方を関東管領がなだめるといった感じで、まだ戦はしていません。鎌倉公方がやんちゃをしていた相手は、主に室町幕府の将軍でしたwww関東管領は、肝がいくつあっても足りなかった事でしょうあせる

奥平貞俊がなぜ三河へ移ったのか?サイト様によっては「上杉憲定の圧力が厳しくなった」と書かれています。その通りであれば、上杉禅秀に関東管領職を譲る1411年以前ということになります。

状況を整理すると・・・
・関東管領・上杉憲定は、奥平貞俊を敵視していた?
・鎌倉公方・足利満兼は、将軍・足利義満と仲が悪かった
・関東管領・上杉憲定は、鎌倉公方・足利満兼を将軍から庇っていた

ということは、奥平貞俊は将軍・足利義満寄りだったという事でしょうか?当時の関東には、将軍直属の京都扶持衆という武士が多数居ました。また、奥平貞俊が移った三河には、将軍の直轄地がどこよりも数多くありました。また、以後も当地の残った一族?の小幡氏は、山内上杉氏の被官となっています。

奥平氏の一部は当地に残り、戦国時代に武田信玄に攻め落とされたとされますが・・・近在の大族・小幡氏は三河守系が上杉氏、尾張守系が武田氏に従いました。とすると、城を攻め落とされた奥平氏?は、三河守系の小幡氏に従ったのでしょうか。

籠城できる堅固な城ではなさそうで、北にある馬場城が奥平城の詰め城だったらしいです。ただ、そちらも造りが古いので、それ以降は城として使われなかったかもしれません。


所在地:群馬県高崎市吉井町下奥平

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