野田城/愛知県新城市 | なぽのブログ

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お休みヒマだ~、どこ行こう?
・・・そうだ、お城!で始まった城跡巡り。
ふらっと訪ねた城跡を紹介します。

野田城は、武田信玄が銃撃された噂のあるお城です。訪問日は2014年8月6日です。

野田城①

現在の野田城は1本の道がすぐ脇を通っており、簡単に辿り着くことが出来ます。端に説明板が設置されており、ちょっと(かなり)鈍い私でも大丈夫でした^^

野田城②
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その説明板に載っていた図です。川に挟まれた舌状台地に堀切を入れた感じですね。北(図の左側)に備えているのがよくわかります。じゃぁ南(図の右側)から攻めればすぐでは?なんて思いますが・・・現地でそんな目で見ればよかったのですが、地図ではどうやら断崖になってるっぽいです。たぶん、ですけどあせる

野田城③

わーい着いたヾ(*´∀`*)ノとばかりに図をろくすっぽ見ずに進むと、すぐに堀切が見えました。図の左から右に進んでいるので、1本見落としているのですがあせるこれは3郭と2郭の間にある堀切です。

野田城④

さらに進むと、小さな神社が見えてきました。というよりも、城キチ的には「大きな堀の向こうに」ですがw堀を渡る土橋は細く、しかもまっすぐではありません。こういう細かい所にも工夫が凝らされているんですね!

野田城⑤

2郭と主郭の間にある堀切です。上から撮った写真だと大したことないように見えてしまいますが・・・結構深いですラブラブ最近、自分は堀が好きなんだって自覚してきました^^

野田城⑥

そしてそして、ちゃんとコレもあります!やはり、よそでは見ないオリジナリティ溢れる城址碑ってイイですね恋の矢恋の矢恋の矢尚、周りにはためく「笛の盆」の幟たち、気になりますよね?ちょっとググってみましたが・・・どうやら新城の町おこし活動のようです。由来はやっぱりアノ噂でしょうか。


◆歴史◆

1509年より菅沼定則が築きました。

1505年に富永氏からの要請により養子となったのですが・・・富永氏の方が菅沼氏よりも家格は上でしたが、菅沼姓を名乗ることを条件だったそうで。当然富永氏側で反対意見が沢山出て、菅沼定則はなかなか富永氏の元に入れませんでした。そして、ようやく翌年になって館に入ることが出来ました。しかし、富永氏の館は立地が悪く、たびたび洪水にも悩まされるような場所でした。そのため、新たに城を築くことになりました。こうして築かれたのが野田城です。築城には8年の歳月を要し、1517年に完成しました。

1556年、城主・菅沼定村が討死しました。

奥平貞勝や田峯城の菅沼本家が、今川義元を裏切り織田信長方に寝返りました。そのため、今川義元は討伐軍を差し向けたのですが・・・この討伐軍に参戦した菅沼定村が、なぜか後続の無いまま突出。そのまま戦となり、菅沼定村の部隊が全滅しました。

1561年、今川軍に占拠されました。

跡を継いだ菅沼定盈は、今川義元の討死後に独立した松平家康に従いました。東三河では西郷清員が中心となって菅沼氏や設楽氏を誘いました。そのため今川氏真により攻められ、野田城は落城。城主・菅沼定盈は、血縁のあった西郷清員のもとへ逃れました。野田城には、牧野成定の重臣・稲垣氏俊が城代として入りました。

1562年、菅沼定盈が野田城を奪還しました。

年が明けると、奥三河で今川軍と松平軍の攻防が一進一退を繰り返します。情勢は次第に松平方が優勢となり、6月には菅沼定盈が野田城を夜襲により奪還しました。この戦いで、野田城を守っていた稲垣氏俊が討死しています。一連の攻防により野田城は激しく傷んだため、菅沼定盈は大野田城を仮の居城としました。

1571年、武田軍に攻められました。

年明け早々に、武田軍の秋山信友が菅沼定盈の大野田城を攻めました。この時、城主・菅沼定盈は西郷清員、設楽貞通らと力を合わせて撃退しています。しかし、西郷氏の当主・西郷義勝がこの戦で討死しています。秋山信友はその後、各地の菅沼一族を個別に寝返らせて5月に再び攻めて来ました。この時は武田軍を防ぎ切れず、大野田城は大破・落城しました。武田軍撤退後、菅沼定盈は守りの固い野田城を再び本拠にしました。

1573年、武田信玄に攻め落とされました。

武田信玄が上洛のため、3万の大軍で野田城を攻めました。菅沼定盈は1ヶ月に渡り抵抗しましたが・・・武田軍は甲斐から金山掘を呼び寄せ、穴をあけて水源を絶ちました。そのため、菅沼定盈は城兵の助命を条件に開城し、捕虜となりました。

上洛のため挙兵したはずの武田軍でしたが・・・進軍を止めて野田城で足踏みし続けました。さらに1ヶ月後の3月に入ると甲斐へ撤退し始めました。城主・菅沼定盈はこの時、両軍の人質交換で戻されました。

この帰途に、武田信玄が世を去っています。武田氏側の記録では、病死だったとされています。しかし、『菅沼家譜』では武田信玄が銃撃されたような記述があります。ただ、ストレート表現ではなく、「夜銃声がして武田軍が騒がしくなった」だそうです。そこに尾ひれが付いて・・・

美しい笛の音に誘い出された武田信玄が、銃で撃たれて死んだ

なんて伝説が生まれたのだとか。

1574年、菅沼定盈が野田城を奪還しました。

武田軍が撤退した後、徳川家康は長篠城を奪還。菅沼定盈も、自らの本拠である野田城を奪い返しました。その翌年、武田勝頼が攻め込んで来ましたが・・・徳川家康と織田信長の連合軍が、武田軍に大勝しています。

1590年、廃城となりました。

徳川家康が関東へ移封となり、菅沼定盈も上野国阿保1万石へ移りました。三河に入った池田照政は、新城に片桐半右衛門を代官として置きました。野田城はこの時に廃城となり、破却されています。


所在地:愛知県新城市豊島

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