牛久保城/愛知県豊川市 | なぽのブログ

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お休みヒマだ~、どこ行こう?
・・・そうだ、お城!で始まった城跡巡り。
ふらっと訪ねた城跡を紹介します。

牛久保城は東三河の雄・牧野氏のお城です。
訪問日は2014年8月7日です。

牛久保城①

牛久保城は現在の牛久保駅一帯にありました。ということで、その辺りの風景です。ご覧の通りで、遺構は期待できずハートブレイク城址碑だけでも、と思って訪ねました。目的のブツは、牛久保駅の真東にあります。

牛久保城②

踏切の手前から、城址碑のある場所を見た所です。ちょっとした公園のようになっています。赤い柱のような物体の脇に、説明板が見えています。

牛久保城③

その説明板に載っている古図です。かつては二重の堀に囲まれていたんですね!ココは堀跡が道にはならず、綺麗に真っ平にしてしまったようです。航空写真を見ても、全く面影がわかりませんあせる

牛久保城④

それでも!ちょっとした削り残しっぽい所に立派な石碑がヽ(´∀`)ノ・・・と思って近づいたら「忠魂碑」でしたw城址碑はそのちょっと手前の右にコッソリ写ってるヤツです。

牛久保城⑤

これが牛久保城の城址碑です。
愛知縣バンザイ合格


◆歴史◆

1529年、牧野成勝が築きました。

牛久保城は一色城の近くに築かれた新しい城です。一色城は牛久保城の古図の中に描かれるくらい近くにありました。築城したのは牧野成勝で、一色城主でした。この年、松平清康が吉田城を攻略して三河統一を成し遂げています。この時に攻められていないことから、その後に築かれたものと思われます。その後まもなく、一色城は廃城とされています。

1556年、牧野成定が城主となりました。

牧野貞成が織田信長に内通し、西尾城に籠城しました。今川義元は松平好景と松平康定に西尾城を攻めさせ、牧野貞成は牛久保城へ退却。その後、城主の身分を剥奪され、蟄居の身となりました。後任の牛久保城主には、牧野一族の牧野成定が任命されました。

1561年、松平元康から夜襲を受けました。

今川義元が桶狭間で討死した後、松平元康は今川家から独立しました。その時に最初に攻めたのが牛久保城とされています。

当時の牛久保城は、城主が今川氏真の命令で西尾城を守っていました。また、残り半分の兵力は野田城守備を命じられており、牛久保城自体はとても手薄でした。松平元康はその上、牛久保城の有力家臣数名も調略した上で夜襲を掛けたのですが・・・城に居た真木兵庫助が奮戦し、留守居役の稲垣重宗が戻って辛うじて落城しませんでした。今川氏真は、この夜襲があるまで松平元康が独立することに気づかなかったそうです。この戦いで真木越中守が討死し、今川氏真はその遺児2名に感状を直接渡したそうです。松平元康は今川家から決別する意味で、松平家康と改名しました。

1566年、牧野康成が城主となりました。

牧野氏は今川方として抵抗を続けましたが、吉田城の小原鎮実が撤退し孤立無援となりました。この頃になると城主・牧野成定は病が重くなり、宿老・稲垣重宗に内政・軍事を委任。稲垣重宗は和睦を献策し、牧野成定は受け入れました。牧野成定は岡崎へ出向き松平家康と謁見し、降伏が受け入れられました。まもなく牧野成定が病没したため、嫡男の牧野康成が家督と遺領を相続しました。

この時ちょっと揉めましたが・・・
ちょっとだけ書きますw

牧野康成は人質として、今川氏真の元に居ました。家督を継いで城主になったものの、その身柄は駿河にありました。そのため、牧野保成の子(成元または成真)と相続を巡って争いとなりました。なんで相続争いになるんだろうと考えてみたのですが、牧野成定が牧野保成の弟だったのかも。牧野成定の出自は???ですが、その跡目を主張するのはその兄の家系と思われるからです。この裁定は徳川家康と今川氏真がバックにつき、最終的に牧野康成が勝利しました。

1590年、池田照政(=輝政)の城となりました。

徳川家康が関東へ移封となり、牧野康成が上野国大胡2万石へ移りました。牛久保城は三河の主となった池田照政の家臣・荒尾成久が城主となりました。

1600年、天領となり代官所が置かれました。

池田輝政が播磨国姫路へ移り、牛久保は天領となりました。城の一部に代官所が置かれたそうですが、1700年に廃止となりました。


所在地:愛知県豊川市牛久保町

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