御馬城/愛知県豊川市 | なぽのブログ

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お休みヒマだ~、どこ行こう?
・・・そうだ、お城!で始まった城跡巡り。
ふらっと訪ねた城跡を紹介します。

御馬城は城址碑と説明板が新幹線の高架付近にあるだけです。
訪問いは2014年8月5日です。

御馬城①

御馬城は正確な位置が特定されていません。場所はまぁまぁわかりやすいので、迷う人は少ないかもしれません。よく紹介されているのは、新幹線の高架をバックにしたこのアングルです。

御馬城②

なので、敢えて反対側からw右と言われれば左、前と言われれば後ろを向く天邪鬼なので(`・ω・´)何事も右から左に真に受けるのではなく、裏から見ることで別の一面が見えたりしますからね^^というのが私の基本スタンスです。世間的にはただのひねくれ者ですけどあせる

御馬城③

せっかくなので、バカ正直ショットも!
私にもこんな素直な一面があるんですよwww ←必死にアピール


◆歴史◆

1369年、細川頼有により築かれました。

命じたのは将軍・足利義満→管領・細川頼之で、更にその弟・細川頼有が築きました。位置的には三河国府に近い港で、海の玄関口を守る目的があったようです。以後、細川頼有の一族が代々城主を務めました。当時の三河守護・大島義高に命じない辺りに、何か事情がありそうな感じです。三河には足利氏の直轄地が多かったので、そのせいかもしれません。

三河守護の大島義高は新田一族ですが、室町幕府に従っていました。観応の擾乱では足利尊氏側につき、足利直義側についた吉良満貞と戦っています。その吉良氏は、三河から遠江にかけてかなり広い範囲を支配していました。御馬城はその中間点にあり、楔を打つ形になったのかもしれません。吉良氏は観応の擾乱で真っ二つに割れ、同族で争いながら次第に衰退していきます。

応仁の乱の頃、今川義忠に攻め落とされました。

応仁の乱では、三河守護・細川成之と駿河守護・今川義忠はともに東軍でした。1473年、美濃の斎藤妙椿(西軍)が細川成之を攻めたため、今川義忠が援軍を派遣しました。この時、兵糧調達のために今川義忠に領地が与えられました。この領地を巡って、今川義忠は遠江の巨海氏や狩野氏との間で争いを起こしました。これが原因で、今川義忠は同じ東軍の細川成之や斯波義良とも対立するようになりました。今川義忠が攻めてくるとしたら、この頃と思われます。御馬城から細川氏を追い出した今川義忠は、牧野氏に城の守備を命じました。

この頃の牧野氏は一色時家の家臣だった筈ですが、どうなんでしょう?一色時家は本家と同じく西軍に属し、東軍の細川成之と戦っていました。細川成之と対立する者どうしで手を組んだという事でしょうか。今川義忠はさらに、かつての領国で斯波氏の領国・遠江へも兵を出すようになります。

1562年、松平家康が攻略しました。

今川義元が討死して今川家から独立した松平家康が、三河各地の今川方の城を攻めました。この辺りに勢力を張った牧野氏は、今川義元討死後も今川方として抵抗していました。御馬城を攻略した松平家康は、長沢松平家の松平直信に城の守備を命じました。

1590年、池田照政の城となりました。

徳川家康が関東へ移り、三河は池田照政(のち輝政)の支配地となりました。御馬城には家臣の山田藤左衛門が入りました。

1600年、再び長沢松平家の城となりました。

関ケ原の戦の後、池田輝政は播磨国姫路へ移り、再び長沢松平家の領地となりました。御馬には長沢松平家庶流の松平重忠が入り、屋敷を構えたそうです。

1634年、廃城となりました。

城主・松平忠住が主・松平定綱に従って伊勢へ移ったため廃城となりました。松平定綱は大垣城主でしたが、この年に伊勢国桑名5万石に加増移封されました。その後、1704年に城の土塁を崩し堀を埋めて畑にしたと、現地説明板には書かれています。


所在地:愛知県豊川市御津町

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