別所城/愛知県東栄町 | なぽのブログ

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お休みヒマだ~、どこ行こう?
・・・そうだ、お城!で始まった城跡巡り。
ふらっと訪ねた城跡を紹介します。

別所城跡には中学校があります。
訪問日は2014年8月6日です。

別所城①

城跡の中学校を目指していると、こんな風景に出会います。このこんもりした所が城跡です。左上がりの道は、上の中学校につながっています。

別所城②

この道を登っていると、カーブの所で脇に入る細道があります。訪問前に参考にしたサイト様達は、いずれもこの道の上に城址碑があると書かれていました。・・・なんとなくバイクで行けちゃいそう!

別所城③

と思って登った結末です。
バイクで階段は無理・・・

別所城④

というか、その手前の曲がり角で身動きが取れずあせるあせるあせるえっちらおっちらとUターンするのにかなり苦労しました。これからここを訪ねる方は、細道には車やバイクで入らないようにしましょうw

別所城⑤

坂道の上にある中学校です。この時は城址碑が何処にあるのかわからず・・・今は色んなサイト様でその場所が紹介されていますあせる


◆歴史◆

天文年間(1532~55年の間)、伊藤貞久により築かれました。

伊藤貞久は伊豆から来たそうです。伊豆で「イトウ」と言えば伊東氏。その伊東氏と言えば、日向国出身です。伊藤貞久は日向から伊豆へ養子に入り、更に三河へ下ったらしいのですが・・・真偽の程は置いて想像すると、後北条氏から今川氏に主を替えたのでしょうか。三河へ移って来た伊藤貞久は、長篠菅沼氏に仕えてこの地に城を築いたのだそうです。奥三河には今川(松平)家に属さない領主がボツボツ居ました。防衛拠点というよりは、奥三河侵攻の最前線だったのかもしれません。伊藤貞久は1559年に没し、嫡男の伊藤貞次が跡を継ぎました。

1560年、今川義元が桶狭間で討死した後、松平元康が今川家から独立しました。この頃の三河では、松平元康に従った者と、今まで通り今川家に従った者に分かれました。伊藤氏が従った長篠菅沼氏の菅沼定盈は、早くから松平元康に従いました。そのため、今川軍に攻められて一時雌伏を強いられましたが・・・1562年に野田城を夜襲で奪還し、以後は松平軍の遠江侵攻で活躍したそうです。

1568年、伊藤貞次が遠江の鶴ヶ城を攻めました。別所城は遠江との国境に近く、遠江側では今川氏真に従った奥山氏が居ました。伊藤貞次は、その奥山氏配下の鶴ヶ山大磯之丞を攻めました。鶴ヶ山大磯之丞は城兵を救うために切腹し、家老と嫡男が人質になったそうです。・・・と、ここまでは徳川家臣として働いています。

1571年、伊藤貞次が武田信玄に寝返りました。

徳川領への侵攻を本格化させた武田信玄は、奥三河にも侵攻しました。この時に寝返ったのは別所城の伊藤貞次や田峯・武節城の菅沼定忠などです。伊藤貞次が仕えていた長篠菅沼家は、武田信玄に寝返らずに徹底抗戦しています。すぐ西の設楽城を整備したのも伊藤貞次とされています。菅沼定忠の田峯菅沼氏が一枚岩でないため、不測の事態に備えようとしたのでしょうか。

1575年、廃城となりました。

伊藤貞次が長篠の戦で武田方として戦い、大敗を喫しました。城主が甲斐へ逃れて不在となったため、別所城は廃城となりました。


所在地:愛知県北設楽郡東栄町本郷

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