楽田城/愛知県犬山市 | なぽのブログ

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お休みヒマだ~、どこ行こう?
・・・そうだ、お城!で始まった城跡巡り。
ふらっと訪ねた城跡を紹介します。

楽田城(がくでんじょう)は「天守」の語源となったといわれるお城です。
訪問日は2014年8月2日です。

楽田城/①城址碑周辺
▲城址碑周辺

楽田城の跡地は楽田小学校となっています。例によって遺構はありません。1982年までは天守台があったそうですが、運動場整備のため破壊されています。

楽田城/②城址碑
▲城址碑

周りを木々で囲まれて遠目には見えませんが、石段の上に立派な城址碑があります。この城址碑はかつては土塁の上にあったものをココに移したんだそうです。・・・土塁もあったんですね。

楽田城/③伝楽田城裏門
▲常福寺山門(伝・楽田城裏門)

遺構は無いと書きましたが、楽田城のものと伝わる門が近所にあります。ちょっとだけ北東にある常福寺の山門がそれとされます。廃城当時は誰もが知ってたんでしょうけど、かなりの年月が経ちますからねあせる


◆歴史◆

1504年、織田久長により築城されました。

織田久長は尾張又守護代で、大和守を名乗っていました。通称は弾正左衛門であり、朝倉教景の娘が「弾正忠久長正室」と記録されています。清州織田家の祖ではないかと思われます。実際、織田宗家と争った織田敏定は織田久長の子とされています。また、弾正忠の名乗りから織田信長の曽祖父である可能性もあります。織田宗家である織田久広に従っており、丹羽郡大赤見城から移って来ました。

この頃の尾張は1494年に美濃での船田合戦により、織田家も再び内紛状態となっていました。織田宗家の織田久広が後ろ盾としていた斎藤妙純が討死してからは、清州織田家が優勢でした。・・・織田久長は、その清州織田氏を仕切ってた織田敏定の父親の筈なんですけどね?織田久広は織田久長が楽田城を築いた1504年から文書に登場しなくなります。織田久長の居た大赤見城は楽田城にかなり西にありましたから、争いがあったと思われます。清州織田氏が東に勢力を拡大した結果なのでしょうか。岩倉城や犬山城にも、清州織田家から城主や養子が送り込まれています。やっぱり、そういう事なんだと思います。

1558年の文書に「殿守」の記述が登場します。

小瀬甫庵の『遺老物語』に「殿守」という記述が見られます。高さ約5mの壇上にある二階建ての櫓で神仏を祀り、殿守と呼んだという内容です。これが「でんしゅ」と読めることから、天守の原型ではないかとされます。この天守の土台は昭和57年までは残っていたそうです。・・・残念ですね。

1562年、織田信清に攻められ落城しました。

織田信清は犬山城主で、織田信秀の弟・織田信康の子です。織田信康は岩倉城の織田信安を補佐していた人物です。織田信安は岩倉織田家を継いでいますが、織田大和守家の出身です。この頃には織田宗家の血筋は絶えていたんですね。

織田家相関図

1552年に織田信秀が没すると、織田信清は独立勢力となりました。そして織田信長の領地を押領するようになり、対立しました。織田信秀の勢力圏って、かなり広かったんですね!しかし、岩倉城の織田信安、その子・織田信賢も織田信長と対立。織田信長は姉を織田信清に嫁がせて、味方に引き込みました。

・・・登場人物がみんな織田姓で紛らわしいですねあせる

織田信長は1558年に織田信清とともに岩倉織田氏(織田信賢)を攻め、浮野の戦で大勝利。その翌年には岩倉城を攻め落として、岩倉織田氏を滅ぼしました。

問題はその後で、岩倉織田氏から奪った領地の配分を巡って、信長と信清が再び対立しました。この辺りの感覚は野盗と変わらない気がしますが・・・w具体的な敵対行動として表れたのが、織田信清による楽田城の攻撃でした。

当時の城主・織田寛貞はかつては織田信清とともに織田信秀の領地を荒らしていた人物です。楽田城落城により没落しましたが、子の織田忠寛が伊勢侵攻などで活躍しました。

1562年、織田信長が奪還しています。

織田信長は織田信清により奪われていた楽田城を奪還し、猛将・坂井政尚を守将としました。坂井政尚は出自不明ですが、尾張では坂井姓の武将が多数居ました。清州城で斯波義統に切腹させた坂井大膳、織田信光を殺害した坂井孫八郎などなど。彼らとの関係は今のところ不明です。

織田信長は同じ年に小牧山城を築き、清州から小牧山へ本拠地を移しました。世間的には小牧山城は美濃侵攻のため築かれたとされていますが・・・この時はまだ犬山城の織田信清と戦っている最中でした。織田信清の勢力圏は木曽川に沿って東西に延びていました。小牧山城はその中間点を衝いており、織田信清対策じゃないかなんて思います。

1564年、織田信長が犬山城を攻め落とし、尾張統一が完了しました。
1567年、織田信長が稲葉山城を攻め落とし、美濃を攻略しました。

1570年、梶川高盛が城主となりました。

坂井政尚は『信長公記』で「一人当千の働き、高名比類なきところ」と称賛される武将でした。織田信長が本格的に畿内へ進出し始めると、足利義昭により信長包囲網が敷かれました。落ちぶれたとは言っても、やはり「将軍」のネームバリューはまだまだ重かったんですね。織田軍は、摂津で三好三人衆と戦っていました。この時に背後の浅井・朝倉連合軍や六角氏、伊勢長島の一向一揆がほぼ同時に挙兵しました。森可成が浅井・朝倉連合軍を食い止めたため、挟み撃ちは免れましたが・・・その森可成は9月の宇佐山城の戦で討死してしまいました。琵琶湖西岸を巡る戦いは長期化しましたが、12月に堅田の猪飼昇貞が降伏しました。この堅田へ向かう途中、比叡山を下って来た朝倉軍に襲われて坂井政尚は討死しました。柴田勝家や森可成と同列だった坂井政尚が生きていたら、歴史は全然違ったでしょうね・・・

梶川高盛は桶狭間の戦で中島砦は守った梶川高秀の子です。常に先陣争いする猛将だったそうです。時期は不明ですが、かなり西の木曽川沿いにあった奥城へ移っています。畿内への出陣が何度も続いたので、より近くへ移ったのでしょうか。そこら辺の理由はわかりませんでした。

1584年、廃城となりました。

梶川高盛が奥城へ移ってからの事はわかりませんが、小牧・長久手の戦では使われました。当初は犬山城を本陣とした羽柴秀吉が、後に楽田城へ本陣を移しています。小牧山城に本陣を置いた徳川家康との間合いをジリジリと詰めたんですね。この戦いではかなりの数の城跡を改修し、軍事拠点として活用しています。戦が終わると廃城となりました。

大正時代(1912~26年の間)に小学校となりました。

それまでかなり遺構は残っていたようですが、徐々に消滅していきました。1982年には天守台も消滅しています。


所在地:愛知県犬山市楽田

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