野府城/愛知県一宮市 | なぽのブログ

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お休みヒマだ~、どこ行こう?
・・・そうだ、お城!で始まった城跡巡り。
ふらっと訪ねた城跡を紹介します。

野府城跡は小学校になっています。訪問日は2014年8月2日です。

野府城/①小学校
▲小学校の正門

城跡というとお寺か神社か学校、という所が多い気がします。・・・幼稚園もありましたけどw学校は結構敷地が広いので、城址碑などを探し回ることがあります。中を覗きながらウロウロしてる様は不審者そものの。通報されそうでドキドキします。ここは正門からちょっとだけ中に入った所にあるのですが「進入禁止」って・・・

野府城/②城址碑と説明板
▲城址碑と説明板

なので、進入しないギリギリまで寄って、望遠で撮りました。説明板の字が小さくて読めない・・・進入禁止にするなら、進入しなくて済む場所に設置して欲しいですよね(T∀T)


◆歴史◆

築城年代は不明です。

明応年間(1492~1500年の間)にはすでにあったそうです。この頃の尾張は、美濃の騒乱と遠江を狙う今川氏に挟まれて大変な時期でした。往時は二重の堀で囲まれ、東西約300m、南北約200mの規模だったそうです。かなり大きなお城だったんですね!

1555年、武藤雄政が城主となりました。

織田信長が清州城を攻略した時のことです。本拠を那古野城から清州城に移した際、勝幡城代の武藤雄政を野府城へ移しています。・・・と皆さま、勝幡城の方には書いてるんですよねw野府城の方には「武藤掃部が城主となり、孫の代に絶えて廃城」が多いです。

この武藤雄政、どんなにググってもヒットせず。織田弾正忠家の本拠地の城代になる位だから、かなりの重臣のハズなんですけどね。織田信長はこの後、尾張上四郡の守護代である岩倉織田家を攻めます。美濃国境も近く、まさに最前線のお城です。

「武藤」でググりまくっていると、武藤瞬秀という武将がヒットしました。この人も織田信長の重臣ですが、織田信長に仕えるまでの経緯が不明なのだそうです。兵法・軍略に精通しており、織田信長は作戦を立てる時にまずは武藤舜秀に諮る程だったとか。1579年の有岡城攻めの最中に病没しています。

謎だらけの重臣・武藤舜秀の居城・馬寄城は、何と野府城の東へ約2㎞の所なんです。推測ですが、親子じゃないでしょうか?w年代的にも活躍した時期が20年程ズレていますから。・・・史料の裏付け等一切無いので、本当にただの推測です。

織田信長の弟・織田信治も城主だった時期があります。

年代はわかりませんが、城主として最も有名なのが織田信治だそうです。ただ、織田信治もよくわからないんですよね・・・わかっているのは、1570年に近江で27歳で討死したことぐらい。武藤雄政の没年は不明ですが、織田信治の年齢から、その後に城主になったかもしれません。推測だらけですwww

その後、津田元嘉が城主になりました。

織田信治の没後、津田元嘉が城主になったとされます。津田姓ということは、織田一族ですね!津田元嘉は織田信長の妹婿でもあり、奉行として活躍しました。織田軍が越前を平定した後、木下祐久、三沢秀次とともに越前支配の代官となっています。・・・ということで、これが1574年の事なので、この時に廃城になったとみられます。


所在地:愛知県一宮市開明町

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