苅安賀城/愛知県一宮市 | なぽのブログ

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お休みヒマだ~、どこ行こう?
・・・そうだ、お城!で始まった城跡巡り。
ふらっと訪ねた城跡を紹介します。

苅安賀城も城址碑しか残っていません。訪問日は2014年8月2日です。

苅安賀城/①周囲
▲自動車学校の脇にあります

「自動車学校の脇にある」という城址碑アップの写真だけを頼りに突撃しました。「自動車学校の脇」って結構距離あるし、どっちの脇か知らないと両側見ないと・・・ってことで、地図の位置の自動車学校側です。

苅安賀城/②城址碑
▲城址碑

これが城址碑です。ここも愛知縣ですネ!あいにくのお天気ですが・・・快晴のドピーカンでもテカテカ反射せず綺麗に撮れそうです。設置場所を考慮してか、文字が上の方に寄せてあるのがニクイです合格


◆歴史◆

1561年、浅井政貞により築かれました。

織田伊勢守家の岩倉城が落城してから3年後です。浅井氏は北近江の浅井氏庶流を称していますが、真偽の程は?なのだとか。織田信長は浅井政貞に城を築かせ、岩倉城の城下町を苅安賀に移しました。浅井政貞は山内一豊とは従兄弟だったそうで、放浪中に一時身を寄せていました。

1581年、浅井政貞が没しました。

子の田宮丸が家督を継ぎ、浅井長時を名乗るようになりました。父の後を受けて織田信雄の家老となっています。

1584年、浅井長時が謀殺されました。

織田信雄が羽柴秀吉と対立し、一触即発の状態となりました。この時、羽柴秀吉は織田信雄方の勢力を削ごうと、盛んに調略を行いました。そのため、織田信雄は三家老が寝返るのではないかと疑い、長島城で殺してしまいました。この時まだ16歳だったのですが・・・浅井長時の弟・政重はこの時9歳で、豊臣秀長に引き取られ、後に徳川家康に仕えました。浅井長時が討たれた後、長時を討った森久三郎が城主となりました。

1590年、織田信雄が改易されました。

後北条氏を討った豊臣秀吉は、織田信雄に徳川家康の旧領へ移るよう命じました。織田信雄がこの移封を拒否したため、改易されました。織田信雄の家臣も多くは所領を失いましたが、森久三郎は秀吉に仕えました。

1600年、廃城になったとみられます。

森久三郎が関ヶ原の戦で討死しました。このタイミングで廃城になったと考えられています。


所在地:愛知県一宮市大和町苅安賀

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