溝口城/愛知県稲沢市 | なぽのブログ

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お休みヒマだ~、どこ行こう?
・・・そうだ、お城!で始まった城跡巡り。
ふらっと訪ねた城跡を紹介します。

溝口城の跡にはお寺があり、その表に城址碑があります。訪問日は2014年8月2日です。

溝口城/①城址碑
▲城址碑

溝口城跡はお寺ということで、サッサと城址碑パチリですぐ次へ行く予定でした。ところが、そのお寺というのがなかなか見つからず…あちこちで紹介されている写真が、上の城址碑だけの写真ばかりだからです。周りの状況がわからなかったので、地図を何度も見直しますが、場所は合ってそう。お寺どこ?あせるあせるあせる

溝口城/②左から
▲左から

そんな感じでウロウロして、ようやく見つけました。目印にしていた城址碑が敷地の中に入り込んでいたので、なかなか気づきませんでした。パッと見では全くお寺には見えず、普通の民家にしか見えません。

溝口城/③右から
▲右から

おそるおそる近づいて、一番上の城址碑の写真を撮りました。これから訪ねる皆さまへ。ここは本当に見つけづらかったです。県道の北側にこんな感じであるので、参考にして下さい。


◆歴史◆

応永年間(1394-1428)、美濃から溝口氏が移って来ました。

溝口氏は甲斐源氏の逸見義重を祖とします。1221年にあった承久の乱での功により、美濃国大桑郷を与えられ、大桑氏を名乗っていました。その大桑氏が大桑城を築き代々居城としていたのですが…応永年間に尾張へ移り、以後は地名をとって溝口氏を名乗るようになりました。…何があったのでしょうか?

尾張は1351年から1391年までの間、土岐氏が守護を兼任していました。そのため、美濃と尾張の間で人の移動があっても不思議ではありません。

応永年間の美濃は、将軍・足利義満に翻弄されていました。美濃守護・土岐康行が将軍の挑発に乗り、1390年に討伐されました。この時に将軍方についた土岐氏庶流の土岐頼忠が美濃守護となりました。しかし、土岐家中を掌握することが出来ず、以後各地で乱が続くようになりました。

溝口氏の祖先は大桑から溝口に移ると、地名から溝口姓を名乗るようになりました。これは、大桑に戻れない事を悟ってのことと思われます。何があったのか結局わからずじまいでしたので推測ですが…1390年までに尾張に移り、美濃の戦乱のため帰れなくなったのではないかと思います。

溝口勝政により城が築かれました。

溝口勝政は戦国時代の人物で、生年不明で1573年に没しています。そのため、築城年代は1530~1550年の間ではないかと思われます。この年代は、織田信秀が勢力を拡大していた時期と重なります。

1571年、丹羽長秀が近江・佐和山城主となりました。浅井家臣・磯野員昌が守る佐和山城を降し、その城主となりました。溝口勝政の子・秀勝は、この時に近江に移ったかもしれません。

1575年、溝口勝政が没しました。

どこで没したのかは?ですが…溝口勝政のお墓は新発田市の託明寺にあります。溝口勝政の子・秀勝は、1581年に若狭・高浜城主となり、その後、加賀、越後と移りました。溝口氏の菩提寺である専光寺(浄土真宗)も一緒に移っていたようです。推測ですが、1571年に丹羽長秀が近江に移った際、溝口氏も一緒に移ったと思われます。城跡にあるお寺が浄土真宗であることは偶然かもしれませんが、偶然じゃないかもしれません。

ちなみに、溝口秀勝は1581年、若狭高浜城5000石の城主となっていますが…織田信長に才能を見込まれ、丹羽長秀の家臣から信長の直臣になった時の事です。それまでの城主は逸見昌経です。

…どこかで見た姓ですね?

溝口氏と同じ祖先から枝分かれした同族だったのです。そういえば、若狭守護の武田氏も甲斐武田氏の一族でしたからね。逸見昌経は跡継ぎの無いまま没していました。溝口秀勝が高浜城主になったのは、何かの縁だったかもしれませんね!


所在地:愛知県稲沢市西溝口町北郷(成願寺)

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