下津城/愛知県稲沢市 | なぽのブログ

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お休みヒマだ~、どこ行こう?
・・・そうだ、お城!で始まった城跡巡り。
ふらっと訪ねた城跡を紹介します。

下津城の跡には城址碑があるだけです。訪問日は2014年8月

下津城/①城址碑周辺
▲城址碑周辺

下津城のあった所は住宅街となっており、遺構は見当たりません。写真の通り道端に城址碑があるだけです。事前にチェックしていたサイトでは立派な城址碑だな~っと思っていましたが…実際に訪ねてみると、意外と目立たないものです。一度目の前を通り過ぎて「あれ?確かこの辺だったのに?」っと感じでUターンしました。

下津城/②城址碑
▲城址碑

確かに、これだけで写っていると大きく見えますよね?上の写真はわかりやすいかな?と思ってちょっと引いて撮っていますが…この道の反対側には小学校があります。一緒に撮った方がわかりやすかったかな?なんて、今更思ったりしています。


◆歴史◆

1400年、斯波義重により築かれたと考えられています。

この年、斯波義重が尾張守護となりました。以後、斯波氏が尾張守護を世襲するようになります。斯波義重は足利義満に寵愛され、幕府の中心として活躍しました。1395年頃に家督を継ぎ、越前、信濃の守護に補任されました。1400年には尾張守護、1405年には遠江守護も兼任し、斯波氏の全盛期を迎えます。特に尾張の領国経営に力を注ぎ、織田氏を守護代として領国経営の実務に当たらせました。

1467年、応仁の乱が始まりました。

応仁の乱は斯波義廉と斯波義敏による家督争いが一因となっています。守護代の織田敏広は分家の織田敏定と主導権争いをしていました。この争いは山名氏や細川氏の争いともリンクし、全国的な騒乱となりました。

斯波義廉は遠縁の渋川義鏡の子で、将軍・足利義政の命により斯波氏の家督を継ぎました。これは斯波義敏が守護代・甲斐常治と争ったことにより、斯波家当主の座を追われました。そのため嫡男・松王丸(のちの斯波義寛)がわずか2歳で家督を継ぎましたが…

長くなりそうなので、ググって下さいw

1476年、織田家の内紛により焼失しました。

織田敏広と織田敏定との戦いで下津城が焼失しました。織田敏広は伊勢守家で守護代、織田敏定は大和守家でその分家です。下津城に籠っていたのは織田敏広だったので、織田敏定が勝ったということです。このため織田敏定が勢力を増し、最終的には尾張を半分に割ることとなりました。(織田敏広は上四郡、織田敏定は下四郡の守護代となりました)斯波義敏・義寛父子・織田敏定側が優勢となり、織田家では分家の大和守家が台頭しました。ちなみに織田信長の家系は、この大和守家のさらに分家とされています。

1478年、守護所が清州城へ移りました。

斯波義寛が下津城の別郭であった清州城へ守護所を移しました。この時に廃城になったものと思われます。敵方の本拠地だった城を直してまで使い続けようとは思わなかったんですねw


所在地:愛知県稲沢市下津蛇池町

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