下之一色城/名古屋市中川区 | なぽのブログ

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お休みヒマだ~、どこ行こう?
・・・そうだ、お城!で始まった城跡巡り。
ふらっと訪ねた城跡を紹介します。

愛知県には「一色城」と付くお城がいくつかあります。名古屋市中川区には「下之一色城」があり、前田氏の持ち城でした。訪問日は2014年8月2日です。

下之一色城/①新川
▲城跡の西を流れる新川

昨年の夏休みは愛知・静岡の城跡を一週間かけて駆け巡りました。ここはその2番目に訪ねた所です。ということで、テンション高めです。まずは地形からということで、すぐ脇を流れる新川です。かなり幅の広い川で、容易に渡ることが出来ません。

下之一色城/②正色小学校
▲正色小学校

城址碑があるという正色小学校です。城跡が学校になっている所はかなりあります。一番気を遣う城跡ですよね。カメラ持ってウロウロしてたらただの不審者ですし・・・ってことで、学校はなるべくお子様のいらっしゃらない朝駆けになるようルートを組みました。随分明るく写ってますが、到着したのは朝の5時20分です。早起きさんのガキんちょお子様でも、まだまだラジオ体操前の時間帯です。

下之一色城/③工事中でした
▲工事中(2014年8月2日の様子です)

ということで、心置きなくウロウロしたのですが、城址碑が見つからずあせるたしかこの土手の小学校脇にあるはずなのに。そう思って10分程行ったり来たりを繰り返していました。まだ人影まばらだったので出来たのですが・・・結局見つける事が出来ませんでしたダウンダウンダウン

これ書こうとあらためてググってみると、何と移動されていました。今は小学校の南側の道端にあるそうです。・・・てことで、画像はありませんm(_ _)m場所は地図の目印の所です。


◆歴史◆

前田氏のお城でした。

築城年代がよくわかりません。「下之一色城」でググった中で、一番古かったのが「前田利治の城」でした。『尾張誌』によると、1485年に前田利治が高野宮神明社を修造した記録があるそうです。しかし、前田氏の出自はサッパリわかっていないそうで・・・美濃国安八郡前田村が発祥の地という説があります。こちらにも前田氏が居り、前田玄以がその子孫なのだそうです。前田氏が与力として仕えていた林氏も、美濃国安八郡がルーツだという説があります。ひょっとしたら、一緒に尾張に移って来たのかもしれませんね。

1556年、荒子領を没収されました。

織田信長と信勝(信行)が争った稲生の戦いの後、荒子一帯の領地を没収されました。没収された荒子領は、荒子城主の前田利春に与えられました。・・・何が違うんだ?って気がしますけどw前田本家は織田信長と敵対した林秀貞・通具兄弟の与力なので、林側に味方したのでしょうか。前田利春の子・利家は織田信長側で参戦していたので、本家への罰だったのかもしれません。荒子城は本家とは別行動だった訳で、実質的には何も変わっていないのでしょうね。以後、前田本家は佐久間信盛の配下に組み入れられました。

1580年、佐久間信盛が織田家から追放されました。

佐久間信盛は10年に渡る石山本願寺との戦いで総指揮を任されていました。しかし、特に目立った功も無く、織田信長に見限られ追放されました。佐久間信盛の配下だった前田本家は特にお咎めが無かったようです。

1582年、前田本家は織田信雄の家臣となりました。

本能寺の変後、前田本家は織田信雄の家臣となりました。追放されていた佐久間信盛が没し、子の佐久間信栄は帰参を許されました。佐久間信栄は蟹江城主となり、前田本家はその配下となりました。

1584年、落城して廃城となりました。

羽柴秀吉と徳川家康・織田信雄の間で小牧・長久手の戦いが始まりました。この戦いの終盤に、前田本家の領地を舞台にした「蟹江の戦い」がありました。織田信雄方に属していた前田本家は、下之一色城や前田城のほか、蟹江城も守っていました。そこへ敵方の滝川一益が現れ・・・蟹江城の守備を任されていた前田長定が寝返りました。前田長定は弟・長俊(下市場城)と、長俊の子・前田長種(前田城)も寝返らせました。下之一色城を守っていたのは前田種利とその子・定利だったようですが、やはり寝返りました。そのため徳川・織田連合軍に攻められ、次々と落城しました。前田種利・定利父子は処刑され、下之一色城は廃城となりました。

尚、この戦いで前田本家はかなりのダメージを負いました。当主・前田長定は蟹江城開城の際に騙し討ちに遭い、討死しました。その弟・前田長俊は、守っていた下市場城落城した際に討死。前田長定の居城・東起城も攻められ落城しています。前田城を守っていた前田長俊の子・長種は、加賀の前田利家のもとへ落ち延びました。


所在地:愛知県名古屋市中川区下之一色町(正色小学校)

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