田幡城/名古屋市北区 | なぽのブログ

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お休みヒマだ~、どこ行こう?
・・・そうだ、お城!で始まった城跡巡り。
ふらっと訪ねた城跡を紹介します。

田幡城の跡地は小学校になっています。訪問日は2014年8月3日です。

田幡城/①金城小学校
▲金城小学校

名古屋城から直線距離で約700m北東にあります。徒歩圏内ですね!ですが、お城があったという痕跡は全く残っていません。城跡が学校になる所は結構多いです。


◆歴史◆

天文年間(1532~55年までの間)に越智信高が築いたとされます。

越智氏は伊予から美濃に移り、林姓を名乗るようになったとされます。領地は美濃国安八郡林村で、現在は大垣市林町(大垣駅の北側一帯)となっています。1399年にあった応永の乱では、土岐頼益の配下として林通祐が活躍しました。この戦いで名族・稲葉氏が絶えたため、林通祐がその名跡を継ぎました。そして、林通祐の弟・林通村が林氏の家督を継いでいます。

越智氏のことを書き始めたのに、途中から林氏のことを書いています。実は、林氏・稲葉氏ともに家系がよく分からなくなっています。伊予から来た河野氏の一族、というのは間違いないようです。美濃に移って来た彼らは、しばしば故郷の名族・越智姓を名乗っていたのです。(稲葉一鉄も越智姓を名乗っていた時期がありました)

さて「天文年間」と書きましたが、23年もあるので、その間に尾張では色々起きています。ザックリ書くと・・・

1532年(天文元)、織田信秀が今川氏から那古野城を奪いました(1538年説あり)
1538年(天文7)、織田信長が4歳で那古野城の城主になりました
1551年(天文20)、織田信秀が死去しました

つまり、田幡城周辺が織田信秀の勢力圏となったのは、元号が天文になってからです。織田信長が那古野城の城主となった時、秀貞が筆頭家老として付けられました。※林秀貞は従来は「林通勝」と表記されていましたが、誤りである可能性が高いそうです。林秀貞は「織田家三代に仕えた」と『信長公記』に書かれています。織田信長の祖父・織田信定は天文の初め頃まで当主を務めていました。色々と時期が重なってきました!

では、何故美濃の林氏が尾張へ?と素朴な疑問が沸いてきます。以下は推測ですが・・・

林秀貞が織田家三代に仕えているので、遅くとも1530年までには尾張に来たと思われます。その頃の美濃のザックリした状況は

1512年、土岐頼武・頼芸兄弟の家督争いで、頼芸は織田家を頼りました。
1518年、亡命していた斎藤彦四郎が、土岐頼芸と連携し美濃に攻め込みました。
1519年、土岐頼武が朝倉氏の援軍を得て美濃守護となりました。
1525~27年、土岐頼武は朝倉氏、土岐頼芸は浅井氏を後ろ盾として戦いました。
1530年、土岐頼武が越前へ逃れました。

織田家は土岐頼芸方として、美濃の家督争いにガッチリ絡んでいます。しかも、争いに敗れた守護代・斎藤彦四郎が、尾張に逃れて来たりしています。林氏が尾張に移って織田氏に仕えたのは、この頃ではないでしょうか?

この頃の織田家(信長の家系)は、尾張西部に本拠がありました。家柄は尾張守護代に仕える清洲三奉行の一人でした。織田信長の祖父・信定は津島の港を支配することで裕福になり、勢力を拡大しました。津島と美濃の安八郡は、木曽川を挟んで隣り合っています。妄想がムクムクと膨らみますw

脱線がやったらと長くなりましたが・・・田幡城を築いたとされる越智信高がどのような人物なのか、結局わからず。その名前と時期から、築城時期は織田信長が那古野城に入った1538年頃と思われます。この時に筆頭家老として信長に付けられたのが、林秀貞です。田幡城は林秀貞の居館として築かれたのではないでしょうか?

・・・推測ですよあせる

1556年、稲生の戦いの後に廃城となりました。

稲生の戦いは、織田信長の弟・信行が起こした謀反です。織田信長と信行は、ともに織田信秀の正室・土田御前の子です。信長が「大うつけ」と呼ばれていたのは有名ですが、弟の信行は優等生タイプでした。そのため、織田信秀が亡くなった後、弟の信行に家督を継がせようという動きがありました。その中心人物が林秀貞・通具兄弟と柴田勝家でした。林秀貞は信長の筆頭家老なのに・・・

9月27日についに挙兵し、柴田勝家と林通具が清洲城へ向け出陣。織田信行は末盛城、林秀貞は那古野城を守りました。織田信長は清洲城から打って出て、稲生で野戦となりました。信長軍の兵力は柴田軍・林軍の半分にも満たなかったそうですが・・・『信長公記』によると、信長が柴田軍を一喝すると、怯んだ柴田軍が総崩れに。さらに、信長自身は林軍へ斬り込み、林通具を自ら討ち取ったそうです。何だか信じられない戦いですが、結果が結果なのでそうなんでしょうかw

この戦いの後に田幡城が廃城となっています。田幡城は討死した林通具のお城か館だったのでしょうか?それとも、林秀貞を監視するため、清洲城近くの沖村城へ移したからでしょうか?・・・そこはわかりませんでした。

尚、信長の母・土田御前の懇願により和睦し、織田信行、林秀貞、柴田勝家は許されています。しかし翌年、織田信行は清洲城内で織田信長に謀殺されました。これは信行の寵愛を失った柴田勝家が、信行に謀叛の動きがあると密告したからだそうです。


随分と長く書きました。いつもだったら想像するだけで書かないような事まで書いています。わかってる事だけ書くと、たったの2行で終わっちゃいますからねあせる予想はしていましたが、尾張のお城を書くとこんな感じになりそうです。


所在地:愛知県名古屋市北区金城3丁目(金城小学校)

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