矢沢城/長野県上田市 | なぽのブログ

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お休みヒマだ~、どこ行こう?
・・・そうだ、お城!で始まった城跡巡り。
ふらっと訪ねた城跡を紹介します。

矢沢城は真田郷の南東を守るお城でした。訪問日は2013年7月31日のいきなり夕方です♪

矢沢城/①登城口
▲登城口

登城口はいくつかありますが、西側から登りました。ここにはザックリな説明板があります。

矢沢城/②城塁
▲段々になった城塁①

登城路からは段段になった城塁が見えます。長野でこういうのは全然見たことがなく、ここだけかもしれません。北九州ではよく見るんですけどねw

矢沢城/③城塁
▲段々になった城塁②

ダッシュで登るのはキツそうな斜面を更に登りにくくした感じです。そんな段が20m位はありそうです。往時はここでどんな攻防戦があったのでしょうか。

矢沢城/④石垣
▲石垣

登城路を登り切る一歩手前の所には石垣がありました。遺構なのか後世のものなのかはよくわかりませんが・・・見た感じは当時のもののような気がします^-^

矢沢城/⑤主郭
▲主郭

主郭は南北に細長い削平地となっています。なにやら石碑がありますが、写真を撮っていません。きっと城址碑ではなかったのでしょうが・・・思い出せないと、今更ながら気になりますあせる


◆歴史◆

矢沢氏の本拠地でした。

矢沢氏は諏訪一族でした。1470年に諏訪大社上社の神事奉仕を務めているので、それまでには築かれていたと思われます。

1541年、海野平の戦いの後も所領を安堵されました。

武田信虎、村上義清、諏訪頼重連合軍が関東管領配下であった滋野一族を攻めました。矢沢氏は滋野一族側として戦ったようです。当時の当主・矢沢綱頼は真田幸隆の弟ですから当然ですよねwって、弟も「綱」の字がありますね!・・・独り言です。この戦いでは海野氏は敗れて所領を失い、海野棟綱は上野国へ逃れています。矢沢氏と禰津氏は諏訪一族の神氏ということで所領を安堵され、村上義清の配下となりました。

1551年、矢沢綱頼は真田幸隆に寝返り、戸石城陥落に貢献しました。

前年に武田晴信が戸石城を攻めて大敗を喫しましたが、この時はたった1日で陥落しました。真田幸隆の名声を一気に高めた戦いでしたが・・・内応したのは幸隆の弟・矢沢綱頼であり、村上家臣の調略に一役買ったことでしょう。この戦での勝利により、真田幸隆は真田郷の奪還に成功しました。矢沢城が本格的に整備されたのはこの頃と考えられています。

1553年、村上義清が武田晴信に敗れ、越後へ逃れました。
1561年、真田幸隆が上野侵攻を開始しました。
1565年、矢沢綱頼が北上野の岩櫃城代となりました。
1567年、真田幸隆が吾妻川と利根川の合流地点にある白井城を攻略しました。
1574年、真田幸隆が没し、真田昌幸が家督を継ぎました。
1578年、御舘の乱に乗じ、真田昌幸が沼田城を攻略。矢沢綱頼が沼田城代となりました。
1582年、天正壬午の乱が起こり、沼田城を巡り真田氏が徳川・北条氏と対立しました。

真田昌幸は服従と離反を繰り返しながら、上田から沼田に所領を守りました。仕えていた徳川家康が北条氏直と和議を結び、その条件に沼田の割譲が含まれていました。しかし、沼田の代替地が不明瞭だったため、真田昌幸は再び離反して上杉景勝に仕えました。

1585年、第一次上田合戦で徳川軍に攻められました。

徳川家康は鳥居元忠、大久保忠世、平岩親吉ら7000の軍勢で真田昌幸を攻めました。真田軍は上田城に真田昌幸、戸石城に真田信之、そして矢沢城に矢沢頼康が篭りました。徳川軍は上田城の二の丸まで攻め入りましたが、ここで撃退されました。この追撃戦に真田信之軍と矢沢頼康軍が加わり、徳川軍は大打撃を受けました。その後戦況は膠着しましたが、石川数正が豊臣秀吉に寝返ったため、徳川軍は撤退しました。この戦に連動して北条軍が沼田城に何度も攻め寄せましたが、矢沢綱頼が撃退しました。

1600年、第二次上田合戦の後に廃城となりました。

関ヶ原の戦では、真田昌幸と信繁(幸村)は西軍、真田信之は東軍につきました。上田城は中山道を通った徳川秀忠軍に攻められましたが、守り切りました。そのため徳川秀忠は関ヶ原の戦いに間に合いませんでしたが・・・本戦は東軍が勝利しました。戦後、上田城は廃城となり、真田昌幸と信繁は和歌山の九度山で蟄居となりました。矢沢頼康がこの時どちらについていたのかハッキリ書いた所がありませんでしたが・・・文脈はこの後から真田信行(信之)に仕えた、と書かれています。矢沢城も上田城と同じ時期に廃城となりました。


所在地:長野県上田市殿城

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