加納城/岐阜市 | なぽのブログ

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お休みヒマだ~、どこ行こう?
・・・そうだ、お城!で始まった城跡巡り。
ふらっと訪ねた城跡を紹介します。

加納城跡は本丸がよく残っています。
訪問日は2013年7月27日のラストです。

加納城/①案内図
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加納城は岐阜城に代わって美濃の中心とすべく、沓井城跡に築かれたお城です。位置はかつての守護所である川手城(革手城とも表記)の近所です。譜代10万石の城として天下普請されており、南北600m、東西300mの規模を誇りました。その縄張りが上の図です。この図は本丸北の出口の所にあるものです。現地なら見やすいのですが、南北逆なのでブログでは見づらいですねあせる

加納城/②本丸南の堀跡が駐車場
▲本丸南側の堀跡が駐車場

さて、辿り着いたのは南側入口にある駐車場です。石垣の脇にあるだだっ広い場所ということで、ここは堀の跡です。あんまり停まってる車が無かったので、入口のすぐ近くに停めました。(バイクが故障したので、急遽借りたレンタカーです☆)

加納城/③南の城門跡から入る
▲本丸南側の門跡

さて、いよいよ入るゼヨ!と正面に構えているのが「臆病門」跡の入口です。ココは入口にゲートがあって、よく見たら入れる時間が決まっていました。

・5月から9月まではam7:30~pm7:00
・10月から4月まではam8:30~pm5:00


この日到着したのが夕方5時半過ぎ。季節によってはアウトなのでありました。訪問予定の方は、朝早過ぎたり夕方遅過ぎないよう気をつけて下さい。

加納城/④城門の西側に石垣
▲左側に石垣が☆

さっき名前を知った臆病門の左側には、チラッと石垣がラブラブまずは城内を見て、その後でゆっくり外側を一周するとしましょう!

加納城/⑤本丸内部の様子
▲本丸内部

さて、意気揚々と城内に入ると、内側はだだっ広い広場でした。ただし、地平線の彼方は土の壁で遮られています。結構な高さの土塁に囲まれているじゃありませんか音譜もちろん土塁沿いに1周しましたとも。

加納城/⑥本丸を囲む土塁
▲本丸を囲む土塁

高さは大体5m無い位でしょうか。本丸をぐるっと1周囲んでいます。もう少し時間に余裕があれば登ってみるのですが・・・まだまだ他に見るつもりでいたので、見上げるだけにしておきました。

加納城/⑦本丸北側にある説明板
▲本丸北側の門外にある解説板

南側から入ったので、出たのは北側です。ここから本丸を外側からじっくり見ます。こちら側には縄張図や想像図、かなり長い説明文の載った案内があります。どうやらこちらがメインの入口のようですねw一番上に載せてる図は、こいつに描かれているものを抜粋しています。

加納城/⑧本丸北側の石垣
▲本丸北側の石垣

お城の外側に出てまず目が行くのは、結構な高さのある石垣です。南側の3倍程あるでしょうか。関ヶ原以後に築かれたので、石垣造りが当たり前だったんですね。加納城の築城には、主に岐阜城の資材が使われたのだそうです。・・・ということは、ココに積まれた石は元々は岐阜城にあった可能性が高い訳ですね!

加納城/⑨本丸西側の石垣は垣根に覆われている
▲本丸西側の石垣

北側から出て西側の石垣をじっくり見るつもりでいたのですが・・・西側の石垣は大部分が木に覆われてとても見づらい状態でした。その前にはロープも張ってあるので、「崩落注意・立入禁止」といった所でしょうか。安全第一なのはとてもよくわかるのですが、せっかくの石垣が殆ど見えずガッカリです。

加納城/⑩垣根の合間から見える石垣
▲垣根の合間から見える石垣

でも!
人のする事に完璧なんてあり得ません。こんな感じでチラッと見える所もありました♪


◆歴史◆(ほとんど守護代斎藤氏の歴史です)

1445年、斎藤利永により沓井城が築かれました。

沓井城は加納城の前身です。守護所である川手城を守るため築かれました。川手城は城というよりも広大な居館だったようです。

斎藤利永は斎藤宗円の子で、有名な斎藤妙椿の兄でもあります。それまで斎藤氏は土岐氏の家宰でしたが、守護代・富島氏を殺害して守護代となりました。これが1444年の事で、ここから斎藤氏vs富島氏の戦いが始まりました。戦いは守護・土岐持益を擁する斎藤方が優勢でしたが・・・宗円は1460年に京の守護代邸に帰る途中で暗殺されてしまいました。斎藤氏vs富島氏の戦いは、応仁の乱で斎藤妙椿が勝利するまで続きました。

1495年、船田合戦がありました。(土岐政房vs元頼)

守護・土岐成頼が嫡子・政房でなく末子・元頼に家督を継がせようとして戦となりました。土岐成頼には守護代・斎藤利藤、石丸利光が付き、土岐政房・斎藤妙純と戦いました。斎藤利藤と斎藤妙純は異母兄弟で、妙純は斎藤妙椿の養子となり持是院家を継ぎました。戦いは土岐政房・斎藤妙純側が勝ちました。

船田合戦の余波・・・

翌1496年、近江で京極氏と六角氏の戦いが始まりました。京極氏は船田合戦の時に斎藤妙純に味方しており、妙純は援軍として近江に出陣しました。この戦いは戦力が拮抗して膠着状態となり、結局和睦してそのまま引き上げたのですが・・・戦いで不利益を被った馬借衆が土一揆を起こし、斎藤妙純と嫡子・利親が討死しました。美濃一の実力者が後継者ともども討死したため、美濃は混乱に陥りました。

再び土岐氏の家督争い(土岐頼武vs頼芸)

土岐政房が嫡男・頼武ではなく次男・頼芸を後継者にしようとしました。自身も家督争いで苦労したはずなのに、懲りないヒトですね。土岐頼武には斎藤利良(妙純の嫡孫)、土岐頼芸には小守護代・長井長弘が味方につきました。

1517年に両派は戦火を交え、この時は頼武派が勝利して頼芸派は尾張へ逃れました。

1518年に再び戦いとなり、今度は頼芸派が勝利して頼武派は越前へ逃れました。・・・織田と朝倉の確執ってこの頃生じたのでしょうか。1519年に土岐政房が没すると、朝倉軍を伴って土岐頼武が美濃に入国。連戦連勝を飾り、美濃守護となりました。

まだまだ続いた家督争い(土岐頼武vs頼芸)

1525年、長井長弘が挙兵し、守護代・斎藤利茂の居城・稲葉山城を攻め落としました。余勢を駆って守護所である福光館も攻め落とし、土岐頼芸のもとで実権を握りました。1530年には土岐頼武が越前へ逃れたため、完全に美濃を掌握します。

1538年、沓井城は廃城となりました。

こんどは守護代・斎藤氏と長井規秀(のち斎藤道三)の戦いです。長井規秀は土岐頼芸方であった長井長弘により大出世しています。長井長弘に見出されて家臣に取り立てられ、西村姓から後に長井姓を許されました。しかし1533年、長井規秀は不行跡を理由に主を殺害し、ついに長井氏を乗っ取りました。

1536年、主・土岐頼芸を守護にすると、長井規秀はその右腕として実権を握りました。規秀の野望はまだまだ満たされず、次のターゲットは名門・斎藤氏の名跡盗りとなりました。1538年に守護代・斎藤利茂の甥で沓井城主・斎藤利良が没しました。斎藤利良は実権はありませんでしたが、持是院家の家督を継いでいました。この機会を逃す長井規秀ではありません。さっそく斎藤利良の名跡を勝手に継ぎ、斎藤新九郎利政と名乗るようになりました。
この時に主を失った沓井城は廃城となりました。

1601年、徳川家康により加納城が築かれました。

前年の関ヶ原の戦いで、岐阜城の織田秀信(織田信長の嫡孫)は西軍に味方しました。そのため改易されて高野山に追放され、岐阜城は破却されました。その後、徳川家康が自ら縄張りを行い、天下普請により加納城が築かれました。建築資材は廃城となった岐阜城のものが使われ、家康の娘婿・奥平信昌が城主となりました。この時に地名も岐阜から加納に変更されました。

1632年、奥平忠隆が嫡子が無いまま没したため改易。大久保忠職が一時的に城主となります。
1639年、戸田光重が城主となります。
1711年、安藤信友が城主となります。
1728年、落雷により御三階櫓が焼失。
1755年、永井信陳が城主となります。そのまま明治維新まで永井氏の居城となりました。

1872年、廃城令により廃城となりました。


所在地:岐阜市加納丸の内

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