柳津城/岐阜市 | なぽのブログ

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お休みヒマだ~、どこ行こう?
・・・そうだ、お城!で始まった城跡巡り。
ふらっと訪ねた城跡を紹介します。

柳津(やないづ)城跡には光澤寺があります。
訪問日は2013年7月27日です。

柳津城/①光沢寺
▲光澤寺

光澤寺は浄土真宗大谷派のお寺で、柳津城の本丸跡にあるんだそうです。だからと言って遺構がある訳ではありませんがあせるお城は木曽川の大氾濫で流されたそうなので、何も無くても仕方ないです。

柳津城/②説明板
▲説明板

お寺の山門の前には、お城の説明板とお寺の縁起が刻まれた石碑があります。この両者、並んでると力の入れ方にずいぶんと差が・・・wでも!遠路はるばる訪ねてこういうのがあると「来た☆!」って気になれるのです。もっとこういうのが増えてくれると、城キチとしてはとても嬉しいです^-^


◆歴史◆

1500年頃、竹腰摂津守により築かれました。

竹腰氏は斎藤氏の重臣で、同じ頃に竹腰尚綱が大垣城を築いています。ほかに竹ヶ鼻城や唯越城、岩田城などもあり、有力な一族でした。竹腰摂津守は竹腰尚綱の兄・竹腰重綱か、その子・竹腰重吉だと思われます。

1556年、城主・竹腰重吉が討死し、成吉尚光が城主となりました。

竹腰重吉が長良川の戦いで討死し、叔父の成吉尚光が城主となりました。長良川の戦いは斎藤道三と斎藤義龍の争いで、道三が討死した戦です。この戦いで竹腰重吉は斎藤義龍方でした。そのため叔父の成吉尚光が竹腰氏を継ぎ、後に竹腰摂津守と名乗りました。

1567年、廃城になったと思われます。

この年、織田信長が稲葉山城を攻め落とし、美濃を制圧しました。城主・竹腰尚光は斎藤家中では長井道利とともに主戦論者だったそうで・・・四家老の一人ともなると、ころっと織田信長に仕える訳にはいきませんよね。竹腰尚光はは佐波村に身を隠し余生を暮したと伝わっています。

1586年、木曽川の大氾濫により城跡が流されました。

この時の大洪水により、木曽川の流路が大きく変わりました。それまでの流路は現在の境川だったと考えられています。地図を見ると木曽川がかなり東に移動したのがわかります。この流路の変更により尾張と美濃の国境が変わり、柳津周辺は尾張から美濃に編入されました。

1606年、城跡に光澤寺が移転してきました。

お寺の縁起(石碑)によると、一ヶ城から現在地に移転してきました。お寺の住職は鎌倉時代の柳津光重から28代続いているそうです。


所在地:岐阜県岐阜市柳津町本郷

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