新庄城/富山市 | なぽのブログ

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お休みヒマだ~、どこ行こう?
・・・そうだ、お城!で始まった城跡巡り。
ふらっと訪ねた城跡を紹介します。

新庄城跡は現在、新庄小学校となっています。訪問日は2012年8月7日です。

新庄城①/新庄小学校
▲新庄小学校

・・・ということで、小学校ですw

新庄城②/説明板
▲説明板

遺構は跡形も無く、説明板が1枚あるだけです。奥の土盛りは・・・違いますよねあせる


◆歴史◆

1520年、越後守護代・長尾為景が陣を張りました。

越中守護・畠山尚順の勢力が衰え、守護代・神保慶宗が台頭しました。そのため畠山尚順が神保慶宗を排除しようと越後の長尾為景に援軍を要請しました。長尾為景は神保慶宗を自害に追い込み、父・長尾能景の仇を討ちました。また、神保慶宗に味方した椎名慶胤も討ち取りました。この戦いで長尾為景が陣を張ったのが新庄城で、史料での初見となります。

その後、越中では色々と戦がありましたが・・・不思議と新庄城は登場しません。長尾為景は陣を張っただけで、本格的な城を築いていなかったと思われます。

1572年、上杉軍による富山城攻めの拠点となりました。

1568年に椎名康胤が上杉氏から離反し、1571年には神保長職も離反しました。そのため、越中は国をあげて丸々反上杉地帯となりました。上杉謙信は河田長親を越中国新川郡を与え、越中の平定を命じました。河田長親は富山城を囲むように今泉城や太田本郷城などの城砦を構築しました。新庄城もこの時に整備されたのではないかと思います。

1576年、上杉軍により神保長城、椎名康胤が滅ぼされました。

神保長城は本拠・増山城を上杉軍に攻め落とされ、その後の消息が不明となりました。また、椎名康胤も一向一揆と共に立て篭もった蓮沼城を攻め落とされ自刃しました。

1578年、上杉謙信が没しました。

上杉謙信が没すると、上杉景勝と上杉景虎が家督争いを始めました(御館の乱)。そのため越中では反上杉勢力が攻勢に転じました。丁度その頃加賀を制圧した織田信長が越中侵攻を開始しました。

1580年、神保長住により攻め落とされました。

神保長住は神保長職の嫡男ですが、反上杉派だったため1567年に追放されました。その後、京に上って織田信長に仕えていました。上杉謙信が没して越中が混乱すると、織田信長から兵を与えられて飛騨から侵攻。各地で旧臣を味方につけた神保長住は、富山城などを攻め落としました。

1582年、一時、土肥政繁が占拠しました。

本能寺の変で織田信長が没すると、今度は織田方が混乱しました。この時に上杉方に復帰した弓庄城主・土肥政繁が一時新庄城を制圧しました。しかし、程なく佐々成政が奪還し、土肥氏の弓庄城も陥落させました。

その後の動静は不明ですが・・・
1587年に越中一国が加賀・前田氏の領地になると役割を終えたものと思われます。


所在地:富山市新庄町1丁目

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