中山古城/群馬県高山村 | なぽのブログ

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お休みヒマだ~、どこ行こう?
・・・そうだ、お城!で始まった城跡巡り。
ふらっと訪ねた城跡を紹介します。

委員会発足第四弾!
まだまだニワカちゃんの迷走は続きます・・・
訪問日は2014年4月13日です。

中山古城は国道から1本脇に入った所から登ります。その登城口がある意味分かりづらいです。さっそくですが、地図を用意しました。

中山古城/地図

国道145号「新田」交差点を北に曲がり、すぐに右折。そして右へカーブする所で左折し、すぐに右へ・・・まぁ、地図を見れば誰でもそう理解すると思います。

私もそう思って現地に行ったのですが・・・?最後に右に入る道が・・・無い?あれれ?と思って2回程行き来していたら、近所の方が声を掛けて来ました。

「何か探してるの?」
気さくそうなオジ様だったので、素直にこの辺にある城跡を見たいと尋ねました。

中山古城/01遠景

すると、写真に入れた矢印の通りに進むよう教えて下さいました。ただ、目だった遺構も無くただの藪だからやめた方がいいよ、とも。城跡に興味が無いとそう見えるのかもと思いながら、お礼を言って進みました。

進むべき道がわかれば、あとは突撃あるのみ!実際に行くと分かるのですが、道というより普通に民家に入る感じです。丁度そこのご主人がいらっしゃったので声を掛けてみました。

すると、このご主人もとても気さくな方で、お城について色々教えて下さいした。何でもほんの40年程前までは、城跡のすぐ下で暮らしていた方が居たそうです。新潟であった地震の時に崩れて水の出が悪くなったので引っ越したのだとか。また、こうやって城跡を訪ねて来る城キチが年に4、5人は居るそうです。熊よけの鈴は鳴らした方が良いとも教えてくれました。

城跡の見学についても快くokして下さいました。ご主人のススメに従い途中まではバイクで、舗装が切れた所からは徒歩で登りました。

中山古城/02道の終点

ほんの2、3分歩くと、谷戸のような地形の真ん中に辿り着きます。

中山古城/03右は緩い坂

そこから右側は緩い坂道。そのまま進めば上に出られそうな感じがします。

中山古城/04左には階段

左側を見ると階段があります。いかにもここから登れ的な感じです。・・・ということで、右の緩い坂を選んだ天邪鬼ですw

中山古城/05左側を見上げた

緩い坂を登りながら左側を見上げると、そこは一面笹がビッシリ。

中山古城/06右側を見上げたところ

右側を見上げると、こちら側はいろんな草や木が茂っている藪。・・・どちらも藪に違いありませんがw

中山古城/07右側の郭内の様子

まっすぐ坂を登ったら、まずは右側へ進むことに。進もうと思ったのですが・・・あまりの藪っぷりに断念。根性ナシですみませんw

中山古城/08左側で堀切発見!

今度は振り返って左側へ。左側の様子を見ていると、堀切っぽい地形を発見!現場に着いてみると、やはり見たまんまで地面が窪んでいました。そこから先には堀切が見つからなかったので、多分本郭と西郭の間だったと思います。

中山古城/09左側の郭内の様子

堀切~ヽ(´∀`)ノと突撃したものの、そこから先はご覧の通り。腰の高さ程まである笹が一面に茂っています。ここを訪れるなら、蛇や虫を気にしなくてもよい季節じゃないと無理ですね。

中山古城/10郭の先にある笹郭

この笹藪を薙ぎながら先端まで進むと、一段下に平場が見えました。台地先端で見られる笹郭というヤツです。

中山古城/11笹郭からの眺め

その笹郭に下りてみると、更にもう一段笹郭がありました。
麓の見晴らしも良いですね!

中山古城/12榛名山

更に!
チラっと左側を見てみたら、木々の間から榛名山が見えました。意外な所で群馬の名峰が見えて感激です。ときの城主様も毎日この名峰を眺めていたのでしょうね。

中山古城/13断崖に突き出た岩

さて、笹郭に下りてしまうと5m程ある切岸を登る気が失せ・・・下を見ると、何だか突き出した岩がありました。う~ん、何だろう?ここまで来ると、ガキンチョの好奇心とほぼ何も変わりませんw登り直す気が無いので、あとはただ下るだけです。

中山古城/14岩

岩の所まで下りると、最初に見た階段がすぐ脇にありました。ああ、こういう事だったのか・・・アスレチックみたいな所に来ると、だいたいみんな同じ行動をするようです。ちゃんとそれに備えてある所が、とてもニクイと感じた次第です合格


◆歴史◆

1214年、武蔵児玉党の阿左美氏により築かれたと伝わります。

阿左美氏はやがて中山氏を名乗るようになりました。

1405年、斎藤越前守基国の嫡子・憲行が岩櫃城に入城しました。

それまでは吾妻氏系の斎藤憲行が城主でした。いきさつ等は一切不明ですが、全くの別人である事だけは確かなようです。吾妻氏はこの時に川出城に移され「あるかなきがごとき」扱いをされたそうです。やっぱり下克上的な事があったのでしょうか?

斎藤憲行には6人の子がおり、それぞれに吾妻の要所にある城が与えられました。中山城は次男・幸憲に与えられています。

1561年、真田幸隆が上野侵攻を開始。
1563年、真田幸隆が岩櫃城を攻略。
1565年、真田幸隆が崇山城を攻略し、斎藤氏が滅亡。

はじめは同族の鎌原氏を助けに来たのですが、エスカレートして吾妻郡一帯を攻略しました。この頃に中山城も真田氏の軍門に降ったのでしょうか。

1582年、後北条氏方の長尾憲景に攻め落とされました。

長尾憲景は白井長尾氏で、白井城を居城としていました。当時は武田氏が滅んだ直後に本能寺の変があり、上野国はとても混乱していました。

白井城は上野国の中心に近いので尚更だったようで・・・武田勝頼が滅びる少し前に、真田昌幸の軍門に降っていました。ところが、武田勝頼が滅びると、代わって上野国にやって来た滝川一益に仕えました。長年争ってきた真田氏に仕えるのは、やはり抵抗があったのですね。しかし、ほんの3ヶ月後には織田信長が横死したため、滝川一益は伊勢へトンボ帰り。長尾憲景は押し寄せて来た後北条氏に仕えるようになりました。白井城を確保した後北条氏は、真田領である沼田と吾妻郡に侵攻したのでした。

中山古城を攻め落とすと、後北条氏は新たに中山城を築きました。吾妻地方では珍しい、壮大な平山城です。この時に中山古城は役割を終えて廃城になったと思われます。


所在地:群馬県吾妻郡高山村中山

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