尻高城/群馬県高山村 | なぽのブログ

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お休みヒマだ~、どこ行こう?
・・・そうだ、お城!で始まった城跡巡り。
ふらっと訪ねた城跡を紹介します。

迷子委員会発足第三弾は、やはり最近道に迷った尻高城(要害城)です。訪問日は2014年4月13日です。

ここもなかなか登城口に辿り着けませんでした。泉竜寺までは何の問題も無かったのですが、その先があせる・・・ということで、最初に地図を!国道145号から登城口まではこちらを参考にして下さい。

尻高城/国土地理院の地図

尻高城/01竜泉寺の高野まきの案内

尻高城/02案内の拡大

国道145号に「泉竜寺の高野まき」の案内があります。ここを北側に曲がります。

尻高城/03説明板

その交差点脇に何やら説明板が。何だろう?と思ってバイクを停めて見たら、尻高城の説明板でした!ここは訪ねてのお楽しみ、ということで敢えてアップせずw

尻高城/04並木城跡の案内

先ほどの交差点から北に進むと、道の両脇に「尻高城(並木城)」の案内があります。「尻高城」は平時の居館である並木城と、詰めの「要害城」の総称なのだそうです。並木城跡は個人宅で、その庭先に城址碑があるそうですが・・・パスしました。

尻高城/05泉竜寺

さて、この道が大きく右にカーブする所に泉竜寺があります。いろんなサイトでここから登るような記述がありましたが・・・お寺の前をスルーして、道なりに更に進んで下さい。

尻高城/06城址碑のある交差点

道はウネウネと曲がりますが、あくまで道なりです。しばらく進むと、写真の交差点に辿り着きます。城址碑と説明板、更に案内図があり、ここを左折します。

尻高城/07城址碑と説明板

せっかくなのでアップです^-^

尻高城/08道案内
拡大図

ここによく見るザックリ案内図があります。以下、登城路の説明はこの図の文字を元に記載します。

尻高城/09登城口

「家」の前で右に曲がると、すぐに写真の場所に出ます。ここが登城口です。クルマ1台なら左脇のスペースに停められそうです。

尻高城/10登城口

ここからは徒歩です。

尻高城/11ここで右へ

しばらくは西に向かって一直線の緩い坂ですが、ここから右(北)へ曲がります。

尻高城/12ほぼ直登の坂

すると・・・斜面を一直線に登る坂。写真では伝わりづらいのですが、だいたい30度位の傾斜があります。落ち葉が積もっているので、とても滑りやすいです。

尻高城/13「堀」の堀切

「堀」の所に差し掛かると、堀切があります。城キチなら見落とすハズが無い位にはっきりと見えます。私もご他聞に漏れずバッチリ撮りましたヽ(´∀`)ノ

尻高城/14「平」の所①

その先の「平」の場所です。ここは人工的に削平された感じがあり、城郭施設があったような感じがします。「尻高城→」の案内が更に先へ進むように設置されていました。ここを城跡と勘違いしてUターンしちゃう人が居たとしても不思議ではありません。

尻高城/15「急登り」の所①

最初の「急登り」の所です。登城路は全般的に道は無く、何となくある踏み跡を辿って進みます。この急斜面はその踏み跡すら無く、自分の判断で登り易そうな所をよじ登ります。

尻高城/16「平」の所②

2つめの「平」の場所です。先ほどの急斜面の上にあります。何となくですが、郭っぽく見えます。ただ、土塁や堀切などの遺構は見当たりません。自然地形だけで十分敵を防げそうですw

尻高城/17「登り」の所

2番目の「登り」の所です。「急」の字はありませんが、かなりの傾斜です。

尻高城/18「石宮」の所

「石宮」の所です。先ほどの急斜面を登り切ると、城門のような松の木に石宮があります。ここからが主郭のようです。

尻高城/19「平」の所③

石宮の先の「平」の所です。山上の狭い稜線が続きます。

尻高城/20「下り」の所

たぶんですが「下り」の所だと思います。ここには2つ目の堀切があります。山上の稜線を断ち切っていることから、最後の防衛線ですね。

尻高城/21朽ちた板

山上には記念碑的な物は何も無いと思っていましたが・・・何やら白い板と棒切れが落ちていました。その白い板には「尻高城跡」と書かれていました。あまりに訪ねる人が少ないせいか、板も使い回しの物ですねあせるせっかくなので、絵になるように置き直してみました。


目だった遺構らしきものは堀切が2つ。よ~く見れば、主郭手前の急坂に段が設けられているように見えなくもないですが。記念碑的な物は麓にある城址碑と説明板だけでした。攻略したゼ!という自己満足だけが残るお城なのかもしれませんw


◆歴史◆

1401年、白井城主・長尾重国が家臣に築かせたと伝わります。

吾妻記に長尾重国(景春)が築き、その3男・重儀が尻高姓を名乗ったと記述があります。まぁ、パッと見で年代が合わないとすぐわかりますがw長尾景春といえば「長尾景春の乱」で有名ですが、1443年生まれです。尚、尻高氏は鎌倉時代末に吾妻行盛の次男が尻高郷を与えられて名乗ったのが始まりです。

ところがこの年代に吾妻地方で大事件が起きています。それは、斎藤氏の当主交代です。大事件と書いておきながら詳細は不明ですが・・・当主が吾妻氏系の「斎藤憲行」から、越前から来た「斎藤憲行」に代わったそうです。

地方の大領主がそっくり入れ替わるということは・・・勝手な推測ですが、それ以上の大領主の仕業としか思えません。上野国の「大領主」といえば、関東管領・山内上杉氏です。当時の関東管領は上杉憲定でした。

斎藤憲行は、その名から上杉憲定に従っていたと推測できます。この吾妻系の斎藤憲行に子が無く、上杉氏がよそから跡継ぎを連れて来たのか。または、斎藤氏が重大な謀反を起こして滅ぼされたのか。

尻高氏には白井長尾系もあるそうなので、もしかしたら後者なのかもしれません。史料も無いようで、謎のままとなっていますが・・・吾妻記の「長尾重国」を無視すれば、あとは案外その通りなのかもしれませんね。

1561年、真田幸隆による上野攻略が始まりました。

1565年、武田信玄の願文で攻略祈願した城に尻高城が含まれていました。

この時既に斎藤氏の本拠・岩櫃城は攻略しており、嵩山城を攻めている所でした。武田信玄が諏訪上宮明神に納めた願文には箕輪、惣社、白井、嶽山の城名が記されています。さらに、新海大明神に納めた願文には、この4城に尻高城が加えられています。真田幸隆が攻略に苦労していると報告したのでしょうか?w

1574年、真田昌幸により攻め落とされました。

真田氏が尻高城を攻略したのは、幸隆の子・昌幸の代でした。尻高景家は奮戦したのですが、多勢に無勢で討死しました。その子の尻高義隆は落ち延びましたが、1580年に真田軍に攻められ滅びました。

1583年、北条氏邦が尻高源次郎宛に中山城へ移るよう書状を出しています。

真田昌幸が攻略してからの尻高城がどうなったのかよくわかりませんが・・・北条氏邦が尻高源次郎宛に尻高城から中山城に移るよう指示した書状があります。・・・ということは、北条氏邦が真田氏から尻高城を奪ったのですね。

当時の上野国は無主で、後北条氏、徳川氏、上杉氏が争奪戦をしていました。吾妻地方は真田昌幸の領地でしたが、北条氏邦が侵攻して中山(古)城を攻め落としました。そして新たに中山城を築き、吾妻地方攻略の拠点にしたのです。尻高源次郎は真田氏に滅ぼされた尻高氏の生き残りだったのでしょうね。


所在地:群馬県吾妻郡高山村尻高

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