魚津城/富山県魚津市 | なぽのブログ

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お休みヒマだ~、どこ行こう?
・・・そうだ、お城!で始まった城跡巡り。
ふらっと訪ねた城跡を紹介します。

魚津城跡には大町小学校などがあります。訪問日は2012年8月7日です。

魚津城/01説明板

魚津城/02古図
▲大町小学校前の説明板(拡大図)

魚津城はだいたい大町小学校辺りにありました。城址碑が小学校にあるというので行ってみましたが・・・やっぱり道がwたどり着いてみると、小学校前に説明板がありました!詳しい解説や古図なども載っているのですが・・・城址碑が見当たらず。もしや敷地内か?と立て看板の指示通り、小学校の事務室へお伺いを立てました。8月なのでお子様達は夏休みですが、当直の先生がいらっしゃって案内して下さいました。

魚津城/03城址碑のある花壇

魚津城/04城址碑
▲城址碑のある花壇

案内された先の花壇の中に大きな岩が1つ。そこに魚津城址の文字が刻まれていましたヽ(´∀`)ノいろんなサイト見たのですが、あんまり周囲の事とか書いてないですね・・・

魚津城/05模型
▲小学校の一室にある模型

この城址碑の真正面の教室は、まるまる一部屋資料室のようになっています。壁には生徒さん達が作られたと思しき資料が貼り出され、お城の模型もありました。一重の堀に囲まれた塀に「毘」やら「龍」の旗が。・・・米沢城を思い浮かべてしまいましたw見た目通りで、要害堅固なお城という訳ではなかったようですね。


◆歴史◆

1335年、椎名孫八入道により築かれたと伝わります。

椎名氏は千葉氏一族で、1221年の承久の乱後に松倉城を中心とする新川郡に所領を得ました。・・・というわけで、魚津城は松倉城の支城の1つとされています。南北朝時代、椎名孫八入道は南朝方の新田義貞に味方して大活躍。越中五勇将の一人に数えられています。

応仁の乱で畠山氏が弱体化すると、守護代である椎名氏と神保氏が争いました。神保氏は能登の畠山氏を、椎名氏は越後の長尾氏を後ろ盾としました。この対立は戦国時代にはそのまま織田信長と上杉謙信の争いに引き継がれました。

1568年、上杉家臣・河田長親が城代となりました。

椎名康胤も上杉謙信の力を背景にして神保長職と越中の覇権を争っていました。しかし、七尾城でクーデターが起こると、上杉謙信は守護・畠山義綱に味方しました。畠山義綱は神保長職の味方でもあったため、椎名康胤は後ろ盾を失ってしまいました。

そこで、椎名康胤は武田信玄や一向一揆と手を組み上杉謙信に抵抗。そのため上杉軍に攻められ、居城の松倉城などが攻め落とされました。椎名氏が追放された新川郡は、上杉家臣・河田長親が治めました。

椎名康胤は越中国内を転々として上杉軍への抵抗を続けましたが、没年は不明です。椎名康胤の養子・長尾景直は椎名氏の名跡を継ぎ、上杉方として今泉城を守りました。椎名康胤の実子・椎名重胤は下総の千葉邦胤を頼り、帰農して現在に至ります。

1581年、須田満親が城代となりました。

河田長親が松倉城で病没したため、須田満親が新川郡を引き継ぎました。ちょうど織田軍が越中に侵攻している時期であり、上杉軍は劣勢を強いられました。

1582年、魚津城が織田軍と上杉軍の主戦場となりました。

織田軍が徐々に西から勢力を拡げ、魚津城にも攻め寄せました。織田軍3万に対する篭城側は3千で、日々戦況は悪化するばかりでした。もはやこれまでと城将13人は自害して開城し、魚津城の戦いは終りました。

しかし、その2日前に本能寺の変で織田信長が自害していました。この知らせを受けた織田軍は、大急ぎで領国へ退却しました。空になった魚津城は、再び上杉軍が占領しました。

1583年、佐々成政に攻め落とされました。

いったんは引き上げた織田軍でしたが、情勢が落ち着くと再び越中に侵攻しました。城代の須田満親は降伏し、魚津城を明け渡しました。松倉城も同じ頃落城し、越中は完全に佐々成政の領地となりました。

1585年、佐々成政が羽柴秀吉により討伐されました。

佐々成政は柴田勝家に味方して羽柴秀吉と戦いました。柴田勝家滅亡後も越中を安堵されていましたが、小牧・長久手の戦いでも秀吉と敵対しました。そのため小牧・長久手の戦いで秀吉が勝利すると、すぐさま討伐されました。討伐後、佐々成政は新川郡を残して全て領地を没収され、大坂暮らしを強要されました。そのため、魚津城か松倉城に佐々家臣が城代として派遣され、統治したと思われます。

1587年頃、前田利長の城となりました。

佐々成政は豊臣秀吉の九州征伐の手柄により、肥後一国を与えられ移りました。そのため、前田利長に魚津城が与えられたのはこの頃と思われます。城代には青山吉次が任命されました。青山吉次は1600年の大聖寺城の戦いの際、金沢城を守備しました。その後、1612年に魚津で没しています。

1615年、一国一城令により廃城になったと考えられます。

もしかしたら青山吉次が没した時かもしれませんが。廃城後の魚津城跡は加賀藩が米蔵や武器庫を建てました。付近に奉行所なども設置し、新川郡の中心地であり続けました。明治時代に堀が埋め立てられて市街地化されたようです。

1879年、魚津城跡に大町小学校が建設されました。・・・ということで、1879(明治12)年までには堀は埋立てられたようです。


所在地:富山県魚津市本町

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