大聖寺城/石川県加賀市 | なぽのブログ

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お休みヒマだ~、どこ行こう?
・・・そうだ、お城!で始まった城跡巡り。
ふらっと訪ねた城跡を紹介します。

大聖寺城跡は錦城山公園となっています。訪問日は2012年8月6日です。

大聖寺城/01城の前を流れる川
▲熊坂川

大聖寺城跡の正面には、いかにも堀!という感じの川が流れています。Google Mapで見ると、大聖寺川からわざわざお城の前に水路が引かれたように見えます。この川は熊坂川と呼ばれ、川沿いに桜の木が植えられています。お花見シーズンにはライトアップもされるそうで、うらやましい限りです合格

大聖寺城/02案内図
▲錦城山公園の案内図(図を拡大)

城跡は公園になっています。公園とはいっても、遊歩道が付けられた丘といった感じですが。その入口に案内図があります。こうやって見ると、丘全体を要塞化したお城だったことが分かります。この中では目立ちませんが、真ん中のちょっと左にある小さなスペースが本丸です。

大聖寺城/03本丸にある土塁
▲土塁

まだ城全体の雰囲気を楽しもう!なんて意識の無かった私は、一直線に本丸へ。本丸に行けばキット何かあるに相違ない!という、いかにもニワカちゃん的な発想ですwまぁ、確かに立派な土塁がありましたけど。ただ、写真の撮り方見てると、土塁を意識してないんですよねあせるあの頃に戻れるならコラwwwってゲンコツ呉れてやりたい気分です (((´・ω・`)

大聖寺城/04本丸にある説明板
▲説明板

本丸といえども眺めはサッパリ。周りを木々にガッチリ囲まれています。やっぱり見張り台というより、山全体が要塞なんですね。他の曲輪を見てこなかったのが残念でなりません。色々拝見してると、本丸の南にある鐘ヶ丸の土塁が凄いらしい・・・です。もしも2周目の城廻りをやることがあれば、是非とも見に行きたい所です。


◆歴史◆

鎌倉時代に狩野氏によって築かれました。

あんまり詳しい事はわからないようです。
苗字のルーツをまとめたサイトによると、伊豆の狩野氏の子孫らしいです。鎌倉時代の初め頃は、平家討伐の功で所領が全国に散らばって与えられました。伊豆の狩野氏が大聖寺を与えられ、その一族が任地に赴いた・・・なんて想像してしまいます。ただ、その頃の流行としては、任地の地名をそのまま苗字にすることが多いです。東北に移った狩野氏も姓は改めなかったので、何か一族で決まり事でもあったのでしょうか。・・・とまぁ、謎が出てくると取り止めも無く妄想が膨らんでいくので、この辺で斬りますw

1335年、名越時兼に攻められましたが、狩野一党が返り討ちにしました。

名越氏は鎌倉幕府執権・北条氏の一門です。名越時兼は越中守護だった名越時有の子で、鎌倉幕府滅亡とともにその座を追われました。しかし、北条時行が仲先代の乱を起こすと同調し、北陸で挙兵して京を目指しました。大聖寺を守っていた狩野氏一党は大聖寺城に篭城し、名越軍3万を撃退しました。

1337年、南朝方の軍勢が津葉清文の守る大聖寺城を攻め落としました。

新田義貞は湊川で敗れた後、後醍醐天皇の2人の皇子を奉じて金ケ崎城に篭りました。これは天皇の権威で味方を集め、足利尊氏に対抗しようとしたのだと思います。しかし、金ケ崎城での戦で皇子が2人とも没し、新田義貞は杣山城へ退きました。皇子が亡くなったことで北朝方の追撃が緩み、新田軍は勢力を盛り返しました。大聖寺城が攻められたのはこの頃の事と思われます。

北朝方の足利高経と南朝方の新田義貞の戦いは、一時新田軍が優勢となりました。越前府中を落とされた足利高経は、足羽七城へと退いて抵抗を続けました。しかし翌1338年、新田義貞が藤島城を攻めた際、自ら偵察に出た所で足利軍と遭遇。足元の悪い田んぼで格好の的となり、南朝方の英雄はあっけなく討死にしました。

1555年、朝倉宗滴に攻め落とされました。

加賀では一向一揆が1488年に加賀守護・富樫政親を討ち、加賀を支配していました。勢いは加賀一国に留まらず、能登や越中、越前にもたびたび進出して来ました。一向一揆に手を焼いたのは越後の長尾景虎(後の上杉謙信)も同じでした。そこで東西から挟み撃ちにすることとなり、朝倉宗滴が西から攻めたのでした。

朝倉宗滴は越前守護となった朝倉孝景の8男で、朝倉貞景・宗淳・義景の3代に仕えました。朝倉一族の重鎮として兄の家系を支え、朝倉氏の全盛期を築き上げました。しかし、この戦いが猛将・朝倉宗滴にとって最後の戦となりました。1日で南郷・津葉(大聖寺)・千足の3つの城を落としたものの、病のため一乗谷へ撤退。その2ヵ月後に没しました。大黒柱を失った朝倉氏は低迷し、加賀一向一揆とは一進一退を繰り返すようになりました。

1567年、大聖寺城が破却されました。

これは足利義昭が仲介し、朝倉氏と加賀一向一揆の間で和議が結ばれた結果でした。朝倉氏は黒谷城と檜屋城、加賀一向一揆は大聖寺の3つの城を破却することが条件でした。

1575年、織田信長が大聖寺城を修復しました。

越前一向一揆を鎮圧した織田信長は、加賀にも侵攻しました。この戦いで江沼郡・能美郡を勝ち取ると、柴田勝家に大聖寺城を修復させました。城代には織田信長の馬廻を務めた戸次広正や、朝倉氏に反抗した堀江景忠が任命されました。翌年の一揆の際には佐久間盛政、その後は拝郷家嘉を城主としています。

1583年、溝口秀勝が城主となりました。

羽柴秀吉により柴田勝家が滅ぼされました。越前は丹羽長秀が領主となり、その与力・溝口秀勝が大聖寺城主となりました。1585年に丹羽長秀が没した後、溝口秀勝は堀秀政の与力として大聖寺城に留まりました。

1598年、山口宗永が城主となりました。

堀秀政の子・秀治が越後春日山へ移ることとなり、溝口秀勝も新発田へ移りました。代わって越前には小早川秀秋が、大聖寺にはその家臣・山口宗永が移って来ました。小早川秀秋は朝鮮での不首尾から呼び戻され、筑前一国からの大減封でした。そのため家臣の多くが秀秋の元を離れ、山口宗永も豊臣秀吉の直臣となりました。その直後に豊臣秀吉が没すると、小早川秀秋の越前移封は取り消されて筑前に戻りました。しかし、山口宗永はそのまま大聖寺に留まることとなりました。

1600年、前田利長の城となりました。

関が原の戦いで、山口宗永は西軍に味方しました。一方、東隣の前田利長は東軍に味方したため、両者の間で戦となりました。この戦いで大聖寺城は落城し、山口宗永は自刃して果てました。

1615年、一国一城令により廃城となりました。

その後、1639年に大聖寺藩が立藩され、大聖寺城の東麓に陣屋が築かれました。以後、大聖寺城跡は入山が禁じられているので、詰めの城となっていたのかもしれません。大聖寺藩7万石は支藩としては大きく、後の石高の見直しで10万石となりました。これは陣屋の石高としては日本最大だったそうです。


所在地:石川県加賀市大聖寺錦町

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