益富城/福岡県嘉麻市 | なぽのブログ

なぽのブログ

お休みヒマだ~、どこ行こう?
・・・そうだ、お城!で始まった城跡巡り。
ふらっと訪ねた城跡を紹介します。

益富城は国道211号と国道322号が交差する要衝にありました。訪問日は2013年12月31日です。

益富城/①国道にある案内
▲国道211号にある一夜城(=益富城)の案内

益富城/②駐車場
▲駐車場

国道211号を走っていると、道端に写真の通り「一夜城」の案内があります。この「一夜城」が益富城です。この矢印に従って道なりに走ると、綺麗に草の刈られた公園に入ります。その突き当たりが駐車場となっています。

益富城/全体図
▲益富城全体のイメージ(図中の番号は写真の番号です)

益富城はかなり広く見所も多いので、本丸にあった案内図に手を加えました。こうやって見ると、周囲の高台は全て別曲輪として押さえていたことがわかります。この日山城をウロウロし過ぎた私は、さすがに全てを見る気力はありませんでしたあせる

益富城/③出丸
▲出丸

益富城/④別曲輪
▲別曲輪

くたくたに疲れきった状態ではありましたが、駐車場脇に別曲輪と出丸の案内が。目の前に美味しそうな餌を出されて黙ってる私ではありません。パクッと食いつきました。

出丸、別曲輪ともに地形をうまく利用して要塞化されていました。起伏の激しい地形なので、こうやって少しでも拠点になりそうな場所を確保したのかも。ただ、1つ1つの曲輪が離れているので、各個撃破に出られたら打つ手がなさそう。

益富城/⑤石垣跡
▲石垣跡

益富城/⑥横堀
▲横堀

出丸から駐車場へ戻り、更に元来た方へ歩くと、トイレと公園の案内があります。その近くの道は、どう見ても強引に山を削ったようにしか見えません。こんな感じで、いかにも通りやすくするために重機で削った跡があちこちに見られます。とても良い感じで遺構が残っているだけに、観光目当ての露骨に開発するのはちょっと・・・

そこから脇道に入り本丸の方へ。すると、大きな水溜りと、大きな石が転がった坂に辿り着きます。水溜りはその名も「水の手曲輪」で、益富城の水場だったそうです。その脇の斜面に転がる大きな石ころ。雑草に埋もれた「石垣跡」の標柱がありました。その「石垣跡」は、本当に石垣あったの?という位、原形を留めていません。九州での破城は、島原の乱もあって徹底的になされたということでしょうか。

そこから本丸へ向かう道を辿ると、今度は「お!」という感じの窪みがあります。斜面に沿って掘られた地面は、間違いなく横堀ですね!・・・そう書いた標柱ありますのでwまだ登る前からテンション上がってきました。

益富城/⑦二の丸入口
▲二の丸への入口

益富城/⑧城址碑
▲城址碑

ただ、ここから二の丸へ登る道は歩きやすいのですが・・・あからさまに重機で削ってあるのが頂けません (((´・ω・`)やはり誰でも不自由なく行き来できるように、という事なのでしょうか。一理あるのですが、それで史跡本来の形状を破壊しては意味がないかと。

で、このがっつり削られた虎口?を抜けると、真正面に城址碑がありました。そういやその日登った城跡には全然こういうのありませんでしたwこれだけはっきり遺構のある城跡でも、コレがあると嬉しいものです^-^

益富城/⑨二の丸枡形虎口
▲二の丸の枡形虎口

そんな削られた虎口から左を見ると、何やら石垣っぽいものが見えました。今度はちゃんと組んでありそう!と近寄ってみましたが・・・上の方は完全に崩されて土嚢が積まれていました。やはり石垣という石垣は徹底的に破壊されたんですね。ただ、虎口の形状はしっかり残っていました。でも、さっき登ってきた所からそんなに遠くないのですが・・・さっきの所って、やっぱり公園化する時に無理やり造ったのでしょうか?

あと、登ってきてビックリしたのは、二の丸がかなり広いこと。本丸まで含めると、長辺は100mを超えるかもしれません。2つの街道が交差する付近の丘の頂をまっ平らに削る造りは、松尾城と同じです。松尾城は築城年代がわかっていませんが、大内盛見なのかもしれませんね。

益富城/⑩二の丸案内図
▲二の丸案内図

益富城/⑪本丸案内図
▲本丸案内図

最初に全体的な案内図を載せましたが、二の丸と本丸にはそれぞれ詳しいのがあります。二の丸と本丸は地続きなので、1枚でいいような気もしますが・・・すご~く長いので、2枚に分けてあるのは正解かもしれません。

益富城/⑫白米流し
▲白米流し

益富城/⑬本丸土塁
▲東側の土塁

二の丸から本丸へ向かう途中、西側の縁に「白米流し跡」というのがありました。山城の戦では「水あるんだゾ」って敵に見せつけるためによくやるんですが・・・益富城を破壊した秋月軍は、水が汲めないようにして行ったって事でしょうかね?なんであんなに水があるんだ~???って思うとすれば、そういう事なんだと思います。ただ、白米をダダダダダ~って流されると、それはそれでコワイ気もしますがw

その反対側の東の縁には、本丸までずっと土塁が巡らされています。途中「横矢」なんて出っ張りまであるので、こちら側に敵を集約する造りなんでしょうね。・・・となると、そっち側に登城路を造るのって、やっぱり不自然ですよね?w

益富城/⑭本丸建物跡
▲本丸建物跡

益富城/⑮本丸枡形虎口
▲本丸枡形虎口

二の丸と本丸の間にはやはり段差があります。この段差を乗り越えて本丸に入ると、真ん中に柵で仕切られたスペースがあります。そこには「建物跡」って書かれた札がありました。どんな建物が建っていたんでしょうね?

更に先に進むと平らな場所が終わり、その端は土塁と門の跡がありました。見るからに厳重な造りですが、やはり石垣は徹底的に破壊されているようです。本丸にいきなり通じる通路があるとすると、こちら側が搦手ですね。

益富城/⑯移築大手門
▲善照寺にある移築大手門

益富城/⑰移築搦手門

▲麟翁寺にある移築搦手門

益富城の遺構は他にも、城外に移築された門があります。

1つは善照寺にある大手門です。こちらは国道322号「上西」の信号を北西方向に曲がると、道の左側にあります。門は境内にありますが、「益富城大手門」と書かれた板があるのですぐにわかります。

もう1つは麟翁寺にある搦手門です。こちらは市役所嘉麻庁舎の隣ですが、塀で仕切られているのでぐるっと回り込みます。この門も左脇に「益富城の搦手門だった」と書かれているのですぐわかります。麟翁寺は母里太兵衛の菩提寺で、お墓もあるそうです。

こうして在りし日の建築物が残ってるってスゴイですよね合格


◆歴史◆

永享年間(1429~41の間)のはじめに、大内盛見が築いたとされます。

1377年、大内盛見は大内弘世の6男として山口に生まれました。長兄・義弘が乱を起こして討死後、兄弟達との争いに勝利して第11代当主となりました。当初は室町幕府に反抗していましたが後に恭順し、周防、長門、豊前の守護となりました。
1429年、筑前が幕府の御料所となるとその代官に任命され、少弐氏や大友氏と戦いました。
1431年、筑前国深江で少弐満貞との戦いで戦死しました。享年55。

・・・ということは、遅くとも1431年には築かれていたのですね。大内氏は幕府方として宮方の菊池氏や少弐氏と争っていました。なので、北九州の地理には明るかったんですね。筑前を任される前から、ここに軍事拠点があればなぁと思っていたのかもしれません。

戦国時代は、日田街道と長崎街道を結ぶ要衝のため、激しい争奪戦が繰り返されました。戦国時代末期になると、益富城は秋月種実の城となりました。

1586年、九州征伐後、豊臣秀吉の側近・早川長政が城番となりました。

九州征伐では、堅城と謳われた岩石城が豊臣軍によりたった1日で落城しました。驚いた秋月種実は益富城を破却して、本拠・古処山城に篭りました。翌日の夜、古処山城から見た益富城周辺は、おびただしい数の松明で埋め尽くされていました。しかも、夜が明けると破却したはずの益富城跡に立派な城が築かれていました。秋月種実は豊臣軍には敵わないと戦意喪失し、剃髪して名器「楢柴」を土産に降伏しました。これに協力した村人には豊臣秀吉が愛用の陣羽織を与え、年貢を免除したそうです。秀吉らしいエピソードですね。その時の陣羽織は今も残っており、役場で保管されているそうです。・・・大晦日なので見れませんでしたがあせる

早川長政は羽柴秀吉の馬廻衆を務め、数多くの戦いで活躍しました。それまでの努力が報われ、秋月種実が降伏した後の益富城城番に任命されました。1593年には豊後の大友吉統が改易され、長政は大分郡内の蔵入地代官として赴任します。翌年には大分郡内1万3000石の大名となり、更に4万7000石の太閤蔵入地を預かりました。秀吉の信頼がとても厚かった武将なんですね。

早川長政は関ヶ原の戦いで西軍に属したため、改易されて浪人となりました。大坂の陣では豊臣方として大坂城に入り、夏の陣では真田信繁の与力として戦いました。大坂城が落城した後の消息は不明ですが、子の九右衛門が細川忠興の家臣となっています。

1600年、関ヶ原の戦い後、黒田長政が筑前六端城の1つとして後藤又兵衛を城主としました。

黒田長政が筑前を与えられた時、隣の豊前を与えられた細川忠興とひと騒動ありました。国替えに際しての年貢徴収が原因で、両者は一触即発のとても険悪な雰囲気となりました。この時に黒田長政が、豊前との国境に整備したのが黒田六端城です。これらの城には後藤又兵衛や母里太兵衛など、黒田軍の主力が配置されました。

1606年、後藤又兵衛が出奔したため、母里太兵衛が城主となりました。

後藤又兵衛は黒田長政とは仲が悪かったようで・・・黒田如水が没して2年後、ついに黒田家を出奔しました。しかも、その出奔先が細川忠興でした。又兵衛さん、よっぽど長政が嫌いだったんですねw

両家の不仲を憂慮した徳川家康が仲裁に入り、黒田家は細川家に年貢を返すこととなりました。この時、細川家には後藤又兵衛を追放することが条件として盛り込まれたのです。後藤又兵衛が浪人となったニュースは全国を駆け巡り、仕官の誘いが殺到したそうです。その中から故郷・播磨の領主・池田輝政を介して岡山の池田忠継に仕えることになりましたが・・・黒田長政が横槍を入れて干渉したため、又兵衛は再び浪人生活を送ることになりました。長政さん、よっぽど又兵衛が嫌いだったんですねwww又兵衛はその後、大坂の陣で豊臣方として戦い、夏の陣の道明寺の戦いで討死しました。

後藤又兵衛はとても有名ですが、その後城主となった母里太兵衛は黒田家随一の武将でした。黒田孝高の代から仕えた母里太兵衛は、常に黒田軍の先鋒を務めて活躍しました。
生涯に挙げた首級は76で、黒田家中ナンバーワンです。酒豪としても知られ、福島正則に呑み勝って名槍・日本号を得た話は有名です。

1615年、一国一城令が発令され、益富城は廃城となりました。


所在地:福岡県嘉麻市中益(左のピンが善照寺、右のピンが麟翁寺です) 

福岡県の城跡/なぽのホームページを表示