なぽのブログ

お休みヒマだ~、どこ行こう?
・・・そうだ、お城!で始まった城跡巡り。
ふらっと訪ねた城跡を紹介します。


テーマ:
麻底良城は黒田六端城の1つで、麻底良山の山頂にありました。
訪問日は2013年12月31日です。

麻底良城/①普門院
▲普門院

ココに来る前に見た登城路のイメージは・・・
普門院の先に登山者用の駐車場があり柿畑の中を登ってく、でした。
たったこれだけのぼんやりしたイメージで乗り込むおいらってあせる
登城口見つけるまで、小1時間程彷徨いましたwww
・・・ということで、登城口までの道のりをしつこく書きます。

国道386号を走っていると看板は出ているので、普門院には迷わず辿り着きます。
「普門院の先」というのは、普門院の前の道を素直に道なりでokです。

麻底良城/②左右良神社
▲左右良城址碑

麻底良城/③駐車場
▲駐車場はここです

道は細くなるのですが、道なりに進んで行くと目立つ石碑が見えて来ます。
この石碑には「左右良城址」と刻まれています。
最初来た時はココが登城口とは見ることが出来ませんでしたが・・・ココから登ります。
おいらって本当に素直じゃないですねあせる
この城址碑から20m程進んだ所に説明板があり、ちょっとした駐車場があります。

麻底良城/④登城口
▲登城口

麻底良城/⑤下宮から見た麻底良山
▲下宮から見た麻底良山

そして、2番目に迷ったのがココです。
色々グダグダ書きますが、写真の黄色い矢印通り進んで下さいネ

最初は左の綺麗な道を登って行きましたが・・・
この道の先には砂防ダムがあって行き止まりです。

次に間違えたのが、道なりに右の舗装道を車で突撃。
突き当たりの柿畑から山に入る道がどこにもありませんでした。

地図を見てると東の方から山の奥の方まで続いてる道があり・・・
普門院の手前で右折したずっと先で、危うく立ち往生し掛けてUターン、などなど

う~ん、登城口どこだろう???

一度落ち着いてネット情報を見直して見ると・・・
(1)普門院の先にある
(2)神社の駐車場にクルマを停め
(3)柿畑の中の道を徒歩で登る
勘違いのポイントには、山への案内があるはず!というのもありました。

ということで、最初に着いた神社が怪しいと思い直しました。
初めに来た時はまだ薄暗くて見えなかったのですが・・・
最初は見向きもしなかった真ん中の道に「麻氐良山→」とうっすら書かれた板が!
その坂を登った所に下宮の小さな社があり、その先に柿畑の中を進む道がありました。
登城口はココだ!と確信すれば、あとはズンズン登るだけですヽ(´ー`)ノ

麻底良城/⑥石灯篭
▲登城路にある石灯篭

麻底良城/⑦本丸の南下
▲本丸下の郭跡

綺麗に草が刈られた柿畑の中の道を進むと、今度は雑木林になりました。
そこから視界は暗くなり、坂も少しずつキツクなっていきます。
道は数十m進んでは折り返し、数十m進んでは折り返しの九十九折れに。
その九十九折れの間隔が、登れば登る程短くなっていきます。
そして、折り返しの所に石灯篭が見えたら、頂上まであと少しです!
もう1、2回折り返すと石の階段が見え、山頂に到着します。
駐車場からの所要時間は20分でした。

麻底良城/⑧麻底良神社社殿
▲麻底良神社上宮社殿

麻底良城/⑨石垣?
▲石垣?

山頂の郭はかなり広く、神社の境内はほんの一部です。
その周辺は結構雑草が生えていました。
外周をぐるっと1周してみましたが、どこも結構な急斜面でした。
その中で、西の方には尾根づたいに平場があって、郭が連なっているように見えました。
あとは、本丸の入口辺りに石を積んだような形跡が。
もしかしたら石垣の跡かもしれませんね。

麻底良城/⑩眺め
▲麻底良城からの眺め

日田街道を抑える要衝だけあって、とても眺めがよいです。
筑後川がいい目印になっていて、位置関係がわかりやすいですね。
こんな高さまで20分で登れちゃうなんて、なんだか凄いと思いました。


◆歴史◆

築城された年はわかりませんが、秋月種実により築かれました。
種実が大友宗麟に奪われた古処山城を取り返して家督を継いだのが1559年です。
麻底良城が築かれたのはそれよりも後、ということになりますね。

種実は宿敵・大友宗麟と激しく争い、名将・立花道雪を追い詰めたこともあります。
その支配地域は一時、筑前・筑後・豊前にまたがる36万石にまで拡大しました。
麻底良城は豊後国日田の西にあり、日田街道を押さえる要衝でした。
城主は喜津瀬因幡と喜津瀬主水が務めました。

種実は毛利軍の支援を背景にしていましたが・・・
その毛利軍が1569年に多々良浜で大友軍に大敗してしまいました。
後ろ楯が大負けしたため、秋月種実ら北九州の諸勢力は大友宗麟に降伏しました。

しかし、1578年に大友宗麟は島津軍との耳川の戦いで壊滅的な敗北を喫しました。
すると、種実は筑紫氏や龍造寺氏とともに反大友の動きを活発化させました。
1581年、原鶴合戦で秋月種実は麻底良城を拠点としました。
秋月軍は日田へ攻め込み、種実の弟・高橋元種とともに大友軍に大勝しました。

1585年、立花道雪が没すると、種実は島津軍と連携して一気に攻勢に出ました。
この劣勢を挽回しようと、大友宗麟は豊臣秀吉に助けを乞いました。

1586年、豊臣秀吉の九州征伐では、種実ははじめ抵抗する姿勢を見せました。
ところが、堅城として知られた岩石城がたった1日で落城。
さらに破却した益富城跡にたった一夜で立派な城が築かれたのを目の当たりに・・・
戦意を喪失した秋月種実は、剃髪して秀吉に降りました。
秋月氏は日向国高鍋3万石に大減封されながらも、明治まで生き残りました。

筑前一国は小早川隆景に与えられ、仁保隆康が麻底良城の城主になりました。
仁保隆康は1554年に毛利軍が門司城を奪った時に城主になった、歴戦の武将です。
その後も大友軍と激しい争奪戦が繰り返される中、門司城を守りきっています。
・・・ということは、麻底良城は戦略上の重要拠点と位置づけられていたんですね!
なんでだろう?って考えてみたら、豊後には大友氏が残っていました。
小早川隆景にとって、大友氏は半世紀近く北九州を巡った宿敵ですからね。
ただ、大友宗麟は九州征伐の最中にチフスにより没していました。

1600年、関ヶ原の戦いがありました。
この戦いの後、再び全国各地で勢力地図が大きく変わりました。
筑前の小早川秀秋は裏切りの功で岡山へ。
その筑前へは黒田長政が豊前から移りました。
そして豊前には細川忠興が丹後から移って来ました。

その直後、黒田長政は豊前との国境沿いにある6つの城を整備しました。
麻底良城だけは豊後との国境ですがw
これは黒田六端城とか筑前六端城と呼ばれています。
そこに配置されたのは後藤又兵衛や母里太兵衛、三宅若狭守などの猛者ばかりです。
これは、黒田長政と細川忠興の間でトラブルがあり一触即発の状態になったからでした。

細川忠興は「武家の作法」として、前任地・丹後では年貢を徴収せずに豊前に来ました。
ところが黒田長政は、豊前で年貢を徴収して筑前へ移りました。
細川忠興は年貢の返還を迫ったのですが、黒田長政を要求を突っぱねました。
これが両者の争いの始まりでした。
事態を憂慮した徳川家康が仲裁に入り、黒田長政は豊前で徴収した年貢を返しました。

1615年、江戸幕府により一国一城令が発令されたため、麻底良城は廃城となりました。


所在地:福岡県朝倉市杷木志波(麻天良神社)

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