鎮西原城/福岡県香春町 | なぽのブログ

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お休みヒマだ~、どこ行こう?
・・・そうだ、お城!で始まった城跡巡り。
ふらっと訪ねた城跡を紹介します。

鎮西原城は田川農林高校跡地にありました。訪問日は2012年1月1日です。

鎮西原城/田川農林高校跡

鎮西原城/正門前には立入禁止の看板
▲田川農林高校跡

高校ならすぐに見つかる・・・と思ったのが甘かったです。ナビには田川農林高校が出てこず焦りましたあせる辿り着いてみてその訳を知ったのですが・・・廃校になっていました。

鎮西原城/香春町史跡公園
▲すぐ脇に「香春町史跡公園」

正門には立入禁止の赤い文字。周囲を真新しいフェンスで囲まれていますが、正門右側に「香春町史跡公園」と貼ってありました。しかし、、、立入禁止の公園ってw

鎮西原城/説明板
▲説明板

更にフェンス沿いに右へ進み、学校の敷地が終わる辺りに説明板がありました。これを見つけずに立ち去る一歩手前でしたあせる

鎮西原城/石碑
▲鎮西原為朝屋敷の石碑

説明板のすぐ脇には目立たない石碑が1つあります。文字はかなり薄くなっていますが「鎮西原為朝屋敷」と彫られています。遺構は無くても、こういうのがあると来て良かったと思います^-^


◆歴史◆

1152年、源為義の8男・源為朝が館を築きました。
1154年、阿蘇忠国を後見人に嫡子・鶴王丸を残して自身は上洛。
1398年、8代目・公朝の時に大内盛見が攻め寄せたため降伏。

かなり脚色はあると思いますが、源為朝のざっくりとした人物像は以下の通りです。

源為義の8男で、八幡太郎・源義家の曾孫にあたります。幼少より力が強く、剛弓の名手として有名でした。気性が荒かったため、持て余した父・源為義により13歳の時に追放されました。追放された先の九州でも豪腕を発揮し、たった3年で九州全土を平定。中坊くらいの年齢で凄い(・∀・)!自ら「鎮西総追捕使」を名乗って暴れていました。

ですが、源為朝をよく思わない者が都に通報し、朝廷から出頭を命じられました。
何度も出頭命令を無視する内に父・源為義が役職を解かれてしまったためやむなく上京。そこで、崇徳上皇と後白河天皇が争った保元の乱に巻き込まれました。父・源為義は源為朝を味方(崇徳上皇方)に引き込み、大活躍しました。兄・源義朝と対峙した時にわざと外して兜を射抜き、義朝軍が撤退した話は有名です。

しかし、乱は後白河天皇方の勝利に終わりました。父の他、源義朝以外の兄弟は皆処刑されてしまいました。源為朝は後白河天皇が並外れた武勇を惜しんだため、減刑して伊豆大島へ流されました。 この時に、今後は剛弓が引けないよう肘の筋を抜かれています。ところが、源為朝は伊豆大島でも大暴れし、またたく間に伊豆大島を支配しました。さらに周辺の島々も次々と従えました。

これがまた都に通報されると、朝廷は追討軍を派遣。源為朝は剛弓で先頭の船を沈めましたが、これ以上の殺生は無用と考え、自ら命を絶ちました。これが日本最初の切腹だと言われています。


所在地:福岡県田川郡香春町中津原

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