宝山城/福岡県行橋市 | なぽのブログ

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お休みヒマだ~、どこ行こう?
・・・そうだ、お城!で始まった城跡巡り。
ふらっと訪ねた城跡を紹介します。

宝山城跡は周囲を田んぼに囲まれた小山にあります。訪問日は2012年1月1日です。

宝山城/遠景
▲遠景

水田に囲まれている小さな山。沼に浮かぶ島的なお城は関東でよく見られます。

宝山城/神社の入口
▲神社の鳥居から見上げる

行ったときには「ふーん、この神社のある小山が城跡か?」くらいな感じでした。重要拠点である馬ヶ岳城からも近く、守り印象を持ちました。

宝山城/社殿
▲王埜八幡宮

ちょっとした急斜面の階段を登ると、すぐに神社がありました。ここが主郭跡でしょうか。参道をそのまま登っちゃったのでわかりませんでしたが・・・本来の登城路は、敵を防ぐ工夫が何かしてあったかもしれませんね^-^;


◆歴史◆

室町時代初期の貞和年間(1345~50年の間)に宝山伊豆守が築いたとされています。宝山城は馬ヶ岳城の出城として機能しました。その後、年代は不詳ですが、安東市次郎重秀が城主になっています。安東氏は戸次氏家臣でしたので、大友氏の豊前侵攻後と思われます。

1551年、陶晴賢が謀反の後、大内氏の家督は大内義長が継いでいました。この頃の北九州は、山口の大内氏が支配していました。大内義長は大友義鎮(のちの宗麟)の弟で、兄弟で山口~大分まで支配していました。

1555年、陶晴賢が厳島で毛利元成に討ち取られました。すると、毛利軍はその勢いに乗って、大内義長まで滅ぼしてしまいました。この時大友氏は毛利氏と盟約を結んでおり、弟を助けることができませんでした。毛利軍は大内氏の残党を滅ぼそうと北九州に侵攻し、門司城などの城を攻め落としました。しかし、これは大友氏と毛利氏の盟約に反するものでした。 そのため大友氏としても黙っている訳にはいかず、北九州奪還の軍勢を送りました。激しい戦闘が繰り広げられましたが、大友氏は密かに将軍に金銀を贈って調停を依頼。

1561年、将軍の裁定によって門司城を除く北九州は、正式に大友氏の領地となりました。安東市次郎重秀が城主となったのはこの頃と思われます。

1578年、大友氏が耳川の戦いで島津氏に壊滅的な大敗を喫しました。その機を突いて、毛利氏が北九州に侵攻しました。この時、宝山城主の安東氏は毛利方になりました。

1579年、松山城主の杉重良が毛利氏に反旗を翻して箕島城に立て籠もりました。安東氏は馬ヶ岳城主・長野助盛とともに蓑島城を攻め落としています。この時の安東氏当主も安東市次郎という名前です。どうやら宝山城主の安東氏は「市次郎」という名前を代々受け継いでいるようです。

その後、豊臣秀吉により九州征伐が行われ、豊前は細川氏の領地となりました。城主・安東五助も細川氏の家臣となり、細川氏が肥後へ移った際にはともに移りました。

宝山城は1615年の一国一城令で廃城となりました。


所在地:福岡県行橋市宝山(王埜八幡宮)

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