糟屋館/神奈川県伊勢原市 | なぽのブログ

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お休みヒマだ~、どこ行こう?
・・・そうだ、お城!で始まった城跡巡り。
ふらっと訪ねた城跡を紹介します。

糟屋館は相模守護・扇谷上杉氏が一時本拠としていました。訪問日は2013年12月7日です。

糟屋館/道灌の墓の入口
▲道の右手に目立つ石柱があります

糟屋館/道灌の墓
▲その垣根の中で、名将・太田道灌が眠っています

県道611号「山王中学校前」交差点を右折して100m程走ると、右手に太田道灌の墓があります。太田道灌は扇谷上杉家の家宰を務め、文武両道の武将として活躍しました。しかし、あまりに活躍し過ぎたため、主・上杉定正により糟屋館で殺されてしまいました。

糟屋館/周辺案内図
▲案内図

その脇には「観光めぐり」として案内図があります。おいおい、人様のお墓まで観光名所に・・・wで、お目当ての糟屋館こと「上杉館跡」が案内図に描かれていました。300mか、歩こうヽ(´ー`)ノ

※私はバイクでしたが、クルマの方は停める所がココしかありません

糟屋館/上粕屋神社
▲上粕屋神社

道灌の墓から糟屋館跡へ向かう途中に上粕屋神社があります。参道は大先輩方の憩の場となっていましたw

糟屋館/空堀
▲からぼり

その上粕屋神社の裏には小田原城もビックリするような「からぼり」があります。・・・とはいえ、見た感じでは自然地形ですね。防御面ではとても効きそうですが^^

糟屋館/発掘調査の看板
▲発掘調査の看板

糟屋館/発掘現場
▲発掘調査の現場

その「からぼり」を土橋のような道で渡ると、「埋蔵文化財の発掘」をしているという看板が。を、ついに糟屋館の場所を特定しようと本気出したかヽ(´ー`)ノ発掘現場のお友達・ブルーシートがそこかしこに掛けられ、所々に掘り出された溝が。・・・そこは確か「からぼり」ではw

糟屋館/道路工事の案内図

糟屋館/道路工事の案内図
▲道路工事の案内板

永らく糟屋館の位置は特定されていませんでしたが、これでようやく・・・と喜んだのも束の間。5mも歩かない内に、今度は絶望的な看板が目に飛び込んで来ました。え、、、道路工事・・・???

ガ━━(゚Д゚;)━━━ン!!!!!

案内図を見ると、糟屋館があったであろうと言われている場所が、かなり道路で潰されそうダウンダウンダウンなんでこんな計画が通ってしまったのか・・・確かに国道246号はいつ通っても渋滞してるので、拡張は必要なのでしょうが。よりによって、葛西城の二の舞になるとはT_T

・・・とはいえ、推定地の半分はまだ残っています。そちらも発掘して白黒ハッキリさせて、これ以上潰されないようしっかり守ってほしいものです。「からぼり」は完全に消滅してしまいますが・・・

糟屋館/重機が土をさらう
▲重機が土をさらう・・・


◆歴史◆

糟屋館が築かれた時期ははっきりしていません。

1450年に関東管領・上杉憲忠の家臣が鎌倉公方・足利成氏を襲った時にはまだ無かったようです。足利成氏を襲ったのが自分の家臣と知った上杉憲忠は、自ら鎌倉を退去して謹慎したのが七沢城でした。七沢城は糟屋館から北に約4kmの所にありました。そこは当時は重臣であった相模守護・扇谷上杉家の本拠地でした。

糟屋館が歴史に登場したのは、1487年です。この時、太田道灌が主・扇谷上杉定正に糟屋館に招かれて謀殺されました。太田道灌は扇谷上杉家の家宰で、享徳の乱で大活躍して主家を山内上杉家と並び立つ程にした人物です。

しかし、上杉定正は優秀過ぎた道灌を恐れて、殺してしまいました。この時、道灌は「当方滅亡」と言って亡くなったそうです。道灌の目には、これから何が起きるのかがハッキリ見えていたのでしょうね。

1488年、関東管領・山内上杉顕定は、鉢形城から兵を率いて糟屋館を目指しました。山内上杉家と扇谷上杉家は享徳の乱の戦後処理を巡って対立していたからです。当時、扇谷上杉家の本拠地は糟屋館で、山内上杉軍は扇谷上杉定正がそこに居ると思っていたのでした。この動きを察知した扇谷上杉定正は、河越城から200騎で追い、実蒔原で奇襲を掛けて大勝しました。

これが長享の乱の始まりです。
実蒔原では勝利したものの、体勢を立て直した山内上杉軍によって七沢城は攻め落とされてしまいました。以後、18年にわたって両上杉家は骨肉の争いを続けました。この乱によって山内・扇谷上杉家はともに疲弊し、後北条家によって駆逐される原因となったのです。

その後、糟屋館がどうなったのかはわかりません。確かに「からぼり」は立派なのですが、東西は要害地形ではないので軍事拠点には向いてなさそうです。上杉定正はその後、相模から武蔵(江戸・河越)に拠点を移したのかもしれません。


所在地:神奈川県伊勢原市上粕屋

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