長享の乱(1487~1505年) | なぽのブログ

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お休みヒマだ~、どこ行こう?
・・・そうだ、お城!で始まった城跡巡り。
ふらっと訪ねた城跡を紹介します。

各城の歴史で、色々時代背景を書くことがあります。あくまで「時代背景」なので、本題ではないのですが・・・「脱線」が長くなり過ぎることが度々wということで、長くなりがちな「脱線」をまとめ、各城にはリンクを貼ることにしました。読みたい人は読んで下さいラブラブといった感じです。・・・そろそろどこのお城書こうとしてるかバレそうですがw
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長享の乱は山内上杉家扇谷上杉家が争った乱です。序盤は扇谷上杉家が優勢に戦いを進めていました。扇谷上杉家は周辺勢力と積極的に同盟を結んで山内上杉包囲網を築きましたが・・・扇谷上杉定正が没すると状況が一変します。それまで扇谷方であった古河公方は、手の平を返すように山内方となりました。また、伊勢宗瑞(北条早雲)が、扇谷上杉家に協力する形で伊豆一国を手に入れます。さらに、大森氏の内紛に乗じて小田原城も手に入れ、相模進出の拠点としました。扇谷上杉軍は、武蔵国・立河原の合戦で今川・伊勢連合軍とともに山内上杉軍に大勝します。しかし、越後勢を援軍に迎えた山内上杉軍が逆襲し、扇谷上杉家は降伏して乱は終結しました。
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<乱に至る経緯>

1455~83年までの28年間、両上杉家は古河公方と戦っていました。(享徳の乱)長い乱の間に山内上杉家では当主が4回代わりました。ある当主は若く、またある当主は他家からの養子であったり・・・そうした山内上杉家を支えてきたのは、家宰・白井長尾家でした。このような状況が長く続いたため、白井長尾家の権力は絶大なものとなりました。

1473年、白井長尾家の当主で山内上杉家の家宰・長尾景信が没しました。

誰もが景信の嫡男・長尾景春が跡目を継ぐと思っていましたが・・・主君・山内上杉顕定は、景信の弟・長尾忠景を家宰に任命しました。長尾景春は不満を持ち、1476年、遂に挙兵しました。景春には数多くの土豪が従い、翌年には主の五十子陣を攻め落とす程でした。(長尾景春の乱)

この劣勢をひっくり返したのが扇谷上杉家の家宰・太田道灌です。道灌は相模、武蔵で景春に味方した勢力を瞬く間に鎮圧。古河公方はこのタイミングで和議を申し出たため、20年以上続いた戦が一旦収まりました。ようやく平和が訪れたのかと思われましたが・・・

乱で勢力を半減させた山内上杉家に対し、扇谷上杉家は一気に勢力を拡大。かつては「鵬躙之遊」(大きな鳥と小さな鳥)と揶揄された両家の勢力は互角になりました。しかし、顕定は古河公方との和議で主導権を握り、扇谷上杉定正の出番はなし。そのため、扇谷上杉家では乱で活躍した家臣達に十分な褒美を与えられませんでした。両家の間には不穏な空気が流れるようになりました。

また、戦で大活躍した扇谷上杉家の家宰・太田道灌の名声が一気に高まりました。実力でのし上がる下克上の世の中。優秀過ぎる家臣は、主君の目には恐怖の対象としか映らないのかもしれません。そんな定正の心理を顕定が突いたという説もありますが・・・

1487年、太田道灌は主・定正により、糟屋館で暗殺されました。

道灌の嫡男・太田資康は定正により江戸城を追われ、山内上杉家のもとに逃れました。逆に山内上杉家を見限って扇谷上杉家に鞍替えする者もあり・・・お互いの裏切り者への制裁が小競り合いになり、いつしか正面から激突するようになりました。

・・・脱線ブログの脱線がついつい長くなりましたあせる

<乱の経過>

1487年、山内上杉家に仕えていた長尾房清(足利長尾氏)が、扇谷上杉家に内通しました。そのため山内上杉軍が、房清の勧農城(足利市)を攻め落としました。これが両上杉家の戦いの始まりとされています。

1488年、2月、顕定は、越後守護・上杉房定とともに鉢形城より1000騎で出兵。一気に定正の本拠・糟谷館を制圧するのが目的だったようです。これに対し、定正は河越城から200騎で山内上杉軍を追撃。糟谷館郊外の実蒔原(伊勢原市)で奇襲をかけました。奇襲は成功したものの、結局七沢城を山内上杉軍に攻め落とされました。

3月、上野国・白井城で上杉定昌が従者ともども自害。上杉定昌は越後守護・上杉房定の長男で、顕定の兄でもあります。越後守護の後継争い説や、元城主・長尾景春の襲撃説などがあります。

6月、扇谷上杉方についた長尾景春が、須賀谷原で山内上杉軍に大勝。

11月、高見原の戦いで、扇谷上杉軍山内上杉軍に大勝。扇谷上杉軍は連戦連勝でしたが、人望が無いせいか離反が相次ぎました。ここで一旦小康状態となります。

1493年、4月、足利政知の子・清晃が還俗して10代将軍・足利義遐(のち義澄)となります。夏、駿河今川家の伊勢宗瑞が、将軍の命により堀越公方・茶々丸を攻めました。将軍・足利義遐は異母兄・茶々丸に母を殺されており、その復讐でした。宗瑞の伊豆討入りは、伊豆の兵が山内上杉家に動員された隙を狙いました。堀越公方は山内上杉家の味方だったのです。このためなのかは知りませんが、扇谷上杉家は伊勢宗瑞と連携するようになります。

1494年、8月、相模の西半分を支配する扇谷上杉方の大森氏頼が没。

9月、相模の東半分を支配する扇谷上杉方の三浦時高が没。大森家と三浦家で後継を巡る内紛が起きます。

10月、扇谷上杉定正が落馬が原因で没。家督は甥で養子の扇谷上杉朝良が継ぎました。定正の死を境に、古河公方が山内上杉家支援に方向転換します。三浦家の内紛で三浦義同が勝利し、定正の異母兄・三浦高救が扇谷上杉方に復帰。(高救は定正が太田道灌を殺した事に憤り、扇谷上杉家を見限っていた)また、三浦義同の口添えにより、太田資康も扇谷上杉方に復帰。同じ月に顕定の父で越後守護・上杉房能が没する。

1495年、伊勢宗瑞が大森氏の小田原城を攻め落とす。

1496年、顕定・古河公方連合軍が小田原城を攻め落とす。この時の小田原城主も大森氏で、宗瑞の弟・弥次郎も一緒に守っていました。色んなサイトでここら辺は???な解説が多いのですが・・・ということで推測すると、大森氏は山内派扇谷派に分裂していたのかもしれません。伊勢宗瑞が扇谷派の大森氏に味方して、山内派の大森氏を討ったものと思われます。宗瑞は1501年までに相模守護・朝良の許しを得て小田原城を得ています。

1504年、8月、顕定朝良の河越城を攻撃。

9月、山内上杉軍扇谷上杉家の援軍である今川・伊勢連合軍が武蔵立河原で激突。戦いは今川・伊勢連合軍が大勝した。

11月、今川・伊勢軍が撤退後、顕定の兄で越後守護・上杉房能軍が朝良の河越城を攻撃。

1505年、3月、顕定は再び河越城を包囲し、朝良は降伏したため、長享の乱は終わりました。

<乱の影響>

顕定朝良を一時菅谷館に幽閉しましたが・・・1507年、顕定の養子・憲房と朝良の妹が結婚。以後の両上杉家は良好な関係を保ちます。

1508年、越後守護代・長尾為景が顕定の兄で越後守護・上杉房能を討ち下克上を果たしました。これに激怒した顕定は越後に攻め込みましたが、翌年、返り討ちにあって世を去りました。すると、顕定の2人の養子・上杉憲房と上杉顕実が家督を巡って争い始めました。古河公方でも足利政氏と嫡男・高基の対立が激化し、ついには争いに発展しました。

この両家の争いを収めようと朝良は仲裁に奔走するようになりました。1510年、伊勢宗瑞は扇谷上杉家との同盟関係を突然解消して、本格的に相模進出を開始しました。山内上杉家も古河公方も頼れない扇谷上杉家は、単独で戦わざるを得ない状況となります。権現山の戦いでは上杉軍が伊勢軍を撃退しましたが・・・

1516年、伊勢宗瑞は相模の東半分の領主・三浦義同を滅ぼして、相模一国を手中に収めます。
1524年、宗瑞の子・北条氏綱は江戸城を陥落させました。伊勢宗瑞を祖とする後北条家は、徐々に関東に勢力を拡げていきました。