平井城/群馬県藤岡市 | なぽのブログ

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お休みヒマだ~、どこ行こう?
・・・そうだ、お城!で始まった城跡巡り。
ふらっと訪ねた城跡を紹介します。

平井城は関東管領・山内上杉氏の居城でした。訪問日は2012年5月26日です。

平井城/鳥瞰図
▲平井城主郭保存整備完成予想鳥瞰図

平井城/案内図
▲案内図(鳥瞰図と同じ向きになるよう回転) 拡大図(回転させていません)

平井城跡は県道173号線沿いにあります。城跡に近づくと、そこかしこに「関東管領平井城」の幟が立ってるので迷いません^^

平井城/①土塁
▲①土塁

城跡に辿り着くと、最初に見えるのがこの土塁です。土塁の上には道端にあったのと同じ幟がいっぱいラブラブ

平井城/②説明板
▲②説明板群

土塁の所が入口になっていて、内側は広場になっています。その突き当たりに説明板が沢山あります。さすが関東管領の居城ヽ(´ー`)ノ

平井城/③堀跡
▲③堀跡と土塁

この広場は住宅や養鶏場に囲まれています。堀跡へはいったん県道に出て回り込みます。案内図からすぐ近くなのですが、直接通ることはできませんT_T

鳥瞰図では間にある住宅が描かれていません。これから土地を買い取って整備するのでしょうね。

平井城/家紋
▲山内上杉家の家紋

そこかしこに立っていた幟には、バッチリ家紋がプリントされていました。これは「竹に二羽飛び雀」紋といいます。普段は家紋に興味ありませんが、こういう凝ったのは好きです^^

最近行った庁鼻和城跡の国済寺にもあちこちに家紋がありました。庁鼻和城は山内上杉氏の支流・庁鼻和上杉氏の本拠地でした。とてもよく似ているのですが・・・口を開けてる雀さんが逆です。庶流はこんな所にも気を遣ったのですね(* ^ー゚)


◆歴史◆

1438年、関東管領・上杉憲実が長尾忠房に平井城を築かせました。

平井城を築いたきっかけとなったのが永享の乱です。いつも脱線が長くなりがちなので、脱線だけで1つのカテゴリー(乱)を作りましたw興味がある方はリンクから永享の乱についてお読み下さい^^

実は、この時に上杉憲実のためにもう1つお城が築かれています。それが雉ヶ岡城です。

せっかく築かれた雉ヶ岡城ですが、手狭なため上杉憲実は平井城に入ったとされます。本当の所は私が知る由も無いのですが・・・天邪鬼なので敢えて異説を。

平井城辺りは元々は上杉氏の重臣・有田定基の領地でした。平井城が築かれて主君が居城とすると、有田定基は雉ヶ岡城に移り、夏目姓に名を改めました。これは、平井城を鎌倉軍から守るため、雉ヶ岡城を盾として築いたのではないかと思います。雉ヶ岡城は手狭かもしれませんが、家臣の城にしては立派過ぎるので。

1467年、家督と継いだ上杉顕定により大改修が行われました。

時代は古河公方・足利氏と関東管領・上杉氏が激戦を繰り広げている享徳の乱の最中です。やっぱり脱線しそうなので、享徳の乱についても別にまとめました。

上杉顕定は越後守護・上杉房定の次男です。前関東管領・山内上杉房顕が跡継ぎのないまま五十子陣で病没しました。困った家宰・長尾景信は、山内上杉家の庶流・越後守護の上杉房定から養子を迎えました。房定は当初断りましたが、景信は将軍・足利義政を巻き込んで、養子縁組をまとめました。さすが、関東で一番ノッテル人ですw

養子として迎えられ、ある日突然争乱の主人公にされた山内上杉顕定。その居城を見て心許無く思ったのかもしれませんね。

1510年、越後を攻めた上杉顕定が討死したため、2人の養子が後継争いを始めました。

2人の養子とは上杉顕実(古河公方・足利政氏の弟)と上杉憲房(上杉清方の孫)です。上杉顕定は生前、後継者は顕実だと言い残していたのですが・・・顕実は鉢形城、憲房は平井城を拠点としました。(永正の乱)
1512年、鉢形城を攻め落とされた顕実は、山内上杉家の家督を憲房に譲りました。
1515年、顕実が病没したため、関東管領職も憲房が継ぎました。
1551年、北条綱成・康成父子により平井城が攻められる。

1552年1月、北条氏康が平井城を攻め落としました。

この時は周辺勢力がこぞって後北条氏に味方し、平井城内にも内応する者が続出したそうです。身の危険を感じた憲政は、嫡男・龍若丸を残して白井城を脱出しました。しかし、守りを託された目加田氏と九里氏は、後北条軍に龍若丸を差し出してしまいました。龍若丸は殺害され、目加田氏と九里氏は「不義不忠の逆賊」として処刑されました。憲政は上野国内に留まり、後北条氏への抵抗を続けたとする説が有力視されています。後北条氏は、北条幻庵(早雲の3男)を置き、平井城を守らせました。

1552年8月、長尾景虎(後の上杉謙信)により奪還されます。

越後の長尾景虎は、平子孫三郎、本庄繁長らに命じて上野国を攻めさせました。この時に平井城の他、平井金山城や沼田城なども攻略しています。

以後の平井城については詳細がわかりません。落城の際に幻庵が破却した説、攻略した景虎が破却した説、1560年に景虎が破却した説があります。わからないので推測しますが・・・

まず、長尾景虎の性格からすると、奪還した平井城は元の主・上杉憲政にそのまま返しそうな気がします。景虎の上野国への出兵は、後北条氏との対立より上杉憲政の依頼の方が動機になりそうだからです。憲政はとても強力な味方を得たので、関東を取り戻そうという野望を抱いたのではないでしょうか。

しかし、長尾景虎はこの頃から信濃へ出兵し、武田晴信と争うにようになりました。毎年のように川中島へ出陣し、武田軍と激戦を繰り返す景虎。景虎は上野国を元の主に返し、後北条氏に対抗させるつもりだったのかもしれません。そうこうしている間に、後北条氏は再び上野国を侵食していきました。

1554年、後北条氏の傀儡となった古河公方の命により、横瀬氏と桐生氏が後北条氏に降ります。
1556年、最後まで抵抗していた山内上杉家の支柱・足利長尾氏もついに後北条氏に降伏します。

さらに、年不詳ながら上野斉藤氏や厩橋長野氏、沼田氏も後北条氏の軍門に降りました。上杉憲政が平井城を返されていたとしたら、この頃までは居たかもしれません。こうして見ると、北条氏康は武田信玄と長尾景虎を戦わせて上野国で勢力を拡大したようですね。

しかし、1560年、遂に長尾景虎は関東攻略に本腰を上げます。沼田城や厩橋城など上野国内の後北条方の城をあらかた奪うと、厩橋城で越年しました。

1561年には小田原城にまで攻め寄せました。長尾景虎は鶴岡八幡宮で関東管領に就任。憲政から山内上杉家の家督を譲られた景虎は、名を上杉輝虎と改めました。以後、輝虎は毎年のように関東に攻め込むようになりました。

これは絶望に淵に立たされた憲政の最後の一手だったのかもしれませんね。

1560年破却説では、この時に上野国の拠点を厩橋城に定めたためとしています。仮にも関東管領の居城だったので、奪われて再び後北条氏が籠ると厄介だったのかもしれません。


所在地:群馬県藤岡市西平井

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