享徳の乱(1455~83年) | なぽのブログ

なぽのブログ

お休みヒマだ~、どこ行こう?
・・・そうだ、お城!で始まった城跡巡り。
ふらっと訪ねた城跡を紹介します。

各城の歴史で、色々時代背景を書くことがあります。あくまで「時代背景」なので、本題ではないのですが・・・「脱線」が長くなり過ぎることが度々wということで、長くなりがちな「脱線」をまとめ、各城にはリンクを貼ることにしました。読みたい人は読んで下さいラブラブといった感じです。
----------------------------------------------------------------------------
享徳の乱は1455年に鎌倉公方・足利成氏が関東管領・上杉憲忠を謀殺したことから始まりました。両者は親の代から因縁があり、永享の乱(1438~39年)では、上杉憲実が足利持氏を討っています。以後、1483年に成氏が室町幕府と和睦するまで、28年にも及ぶ長期の乱となりました。時代的には太田道灌が活躍した時期と重なります。
----------------------------------------------------------------------------
乱に至る経緯

1439年、永享の乱で鎌倉公方・足利持氏が関東管領・上杉憲実により討伐される。
1440年、結城氏を中心とする持氏派の残党が乱を起こす(結城合戦)
1441年、嘉吉の乱により将軍・足利義教が赤松満祐に謀殺される。
1446年、上杉憲実の嫡男・憲忠が還俗し、1439年以降当主不在だった山内上杉家の家督を継ぐ。
1448年、11月に憲忠が関東管領に就任。
1449年、越後守護・上杉房朝らの要求により、足利持氏の子・成氏が鎌倉公方に就任。旧持氏派の結城氏、里見氏、小田氏等が要職に就き、上杉派を遠ざける。
成氏憲忠ともに十代半ばであり、実際の政務は側近が執り行っていた。
1450年、4月、成氏派の簗田持助が鎌倉郡長尾郷を上杉家から没収しようとしたことから衝突。長尾景仲、太田資清らは、成氏を攻めて江の島で合戦となる。憲忠成氏を襲撃したのが長尾氏と太田氏だと知り、自ら七沢に謹慎する。
5月、室町幕府の仲裁により和睦。裁定は成氏側に有利な内容であった。
8月、成氏が鎌倉に帰還する。
10月、憲忠は許され、鎌倉に帰還する。
1452年、幕府管領が畠山持国から細川勝元に。勝元は鎌倉公方に厳しく、関東管領の取次がない書状は受け取らないと言い渡す。

乱の経緯
・・・とっくに乱になっているような気がしなくもないですがw

1455年、1月15日、成氏憲忠を屋敷に招いて謀殺。成氏側近が長尾実景も殺害する。成氏は上杉氏の本拠・上野国を攻略するため鎌倉を出陣。山内上杉家家宰・長尾景仲は成氏迎撃のため上野国・武蔵国の兵を集め出陣。
1月21~24日、両軍は武蔵国・分倍河原で激突した結果、上杉軍が大惨敗。扇谷上杉顕房が討死した他、犬懸上杉憲秋が高幡不動で自害した。
3月、長尾景仲が立て籠もる常陸国・小栗城が成氏軍に攻め落とされる。憲忠の弟・上杉房顕が関東管領に就任。後花園天皇より成氏追討令が出され、成氏は朝敵となった。駿河守護・今川範忠が幕府の命により鎌倉へ向けて出陣。
4月、房顕は越後守護・上杉房定(房朝の養子)と合流して平井城で挙兵する。房顕軍と成氏軍は、下野国・只木山(佐野市)で対陣する。
6月、今川範忠が鎌倉を制圧。成氏は鎌倉への帰還を断念し、古河を新たな本拠地とする。成氏が上杉方に寝返っていた宇都宮等綱の宇都宮城を攻め落とす。
1456年、武蔵国岡部原で房顕軍と成氏軍が激突。太田道灌が家督を継ぎ、河越城や江戸城を築く(1457年竣工)。
1458年、将軍・足利義政は異母兄・足利政知を鎌倉公方に任命した。しかし、政知は鎌倉に入ることが出来ず、伊豆国堀越で堀越公方と称した。
1459年、10月14日、房顕は太田庄(熊谷市)の戦いで大敗する。以後、両陣営は付近の五十子陣を挟み、18年にわたって膠着状態となる。
1463年、山内上杉家家宰・長尾景信が没する。房顕は関東管領職を退こうとするが、幕府に拒絶される。
1466年、房顕が五十子陣で没し、暫く休戦となる。幕府は越後守護・上杉房定の次男・上杉顕定を後継者にするよう命じた。
1467年、河越城で扇谷上杉持朝が没する。持朝の孫・政真が扇谷上杉家当主となる。
1468年、上野・綱取原合戦で上杉軍が勝利。
1469年、上杉方の岩松家純が成氏方の岩松成兼を追放し岩松氏を統一。上杉側は徐々に反撃。
1471年、成氏軍が伊豆へ侵攻。その留守を狙い、上杉軍は下野国内の諸城を降す。
1472年、成氏が古河城を奪還する。山内上杉家家宰・長尾景信が五十子陣で没する。家宰職を弟・忠景が継ぐ。
1473年、五十子で扇谷上杉政真が討死。 政真の叔父・定正が扇谷上杉家当主となる。
1476年、太田道灌と堀越公方軍は今川氏の内紛調停のため駿河に出兵。山内上杉家家宰職の後継を巡り、景信の嫡男・長尾景春が鉢形城で挙兵。
1477年、2月1日、長尾景春が顕定の五十子陣を陥落させる(長尾景春の乱)景春に同調した武蔵の大族・豊島氏を、太田道灌は2ヶ月で滅ぼす。
1478年、成氏顕定の和睦が成立。上杉軍は長尾景春の乱鎮圧に移行する。
1479年、成氏は幕府にも和議を申し出る。
1483年、1月6日に室町幕府と成氏との間で和睦が成立。

乱の影響
山内上杉家では、享徳の乱終盤に長尾景春が離反しました。景春は本来であれば、山内上杉家の家宰となるべき人物でした。そのため大変人望あり、従った家臣が多数出たために山内上杉家の勢力は半減しました。

一方、享徳の乱を通じて扇谷上杉家の家宰・太田道灌が大活躍しました。そのため、扇谷上杉氏の影響力は、主家・山内上杉氏に迫る勢いでした。しかし、古河公方との和睦は山内上杉氏が取り仕切りました。このことに扇谷上杉定正は不満を抱き、山内上杉家と次第に不仲となります。

乱後、太田道灌の名声が絶大になり、危機感を抱いた定正は道灌を謀殺しました。道灌暗殺の影響はすさまじく、山内上杉家に鞍替えする者が続出しました。

1487年、山内上杉方であった長尾房清が離反し、扇谷上杉方に転じました。そのため、山内上杉軍は房清の勧農城を攻めました。これがきっかけとなり、両上杉家による争いは長享の乱へと発展しました。