永享の乱(1438~39年) | なぽのブログ

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お休みヒマだ~、どこ行こう?
・・・そうだ、お城!で始まった城跡巡り。
ふらっと訪ねた城跡を紹介します。

各城の歴史で、色々時代背景を書くことがあります。あくまで「時代背景」なので、本題ではないのですが・・・「脱線」が長くなり過ぎることが度々wということで、長くなりがちな「脱線」をまとめ、各城にはリンクを貼ることにしました。読みたい人は読んで下さいラブラブといった感じです。
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初回は鎌倉公方・足利持氏が起こした永享の乱について書きます。脱線としてまとめて書く「乱」ですが・・・まずはその時代背景からwww

1425年、5代将軍・足利義量が没す。
1428年、将軍職を代行していた足利義量の父・足利義持も没す。

足利義持は後継者を指名しないまま世を去りました。困り果てた幕府が出した結論は・・・なんとクジ引きでしたwそのクジを引くのは、出家して僧籍にあった足利義持の4人の子。そして当たりを引いた義円は還俗し、6代将軍・足利義教となりました。

これに不満を抱いたのが、鎌倉公方・足利持氏でした。足利持氏は4代将軍・足利義持の猶子となっていました。そのため、次は自分が将軍になるのが当然だと考えていたようです。以後、足利持氏は幕府に対して反抗するようになりました。

ここで板挟みになったのが、関東管領・上杉憲実です。関東管領は鎌倉公方を補佐する幕府の役職です。上杉憲実は京に攻め上ろうとする足利持氏を諌めたり、足利持氏が改元に従わないのを幕府に謝罪したり、足利持氏が横領した所領を幕府に返したり、富士山を見に来ようとした将軍を危険だからと止めたり・・・とまぁ、駄々こねまくる足利持氏を、ここまでやるか!という位に庇い続けました。

1436年、足利持氏は、信濃での小笠原氏と村上氏の争いに介入しようとしました。足利憲実は越権行為だと諌め、足利持氏は出兵を取りやめました。

翌1437年、足利持氏は信濃の争いに介入しようと再び挙兵しました。ただし、この挙兵は上杉憲実を討ち取るためだという噂が鎌倉に広まりました。足利持氏上杉憲実を訪ねて釈明しましたが、足利持氏の慰留を振り切って上杉憲実は関東管領職を辞しました。上杉憲実は藤沢の館に籠りますが、嫡子・上杉憲忠を上野国に避難させています。関東管領の居城として有名な平井城が築かれたのはこの時だと考えられています。

1438年、両者の対立は引き返すことの出来ない事態に発展します。足利持氏の嫡子・賢王丸が元服し、足利義久と改名しました。通例であれば将軍から名前の一文字を拝領するのですが、足利持氏はそうしませんでした。幕府への叛意が露骨になったこの元服式に、上杉憲実は出席しませんでした。これに腹を立てた足利持氏は、遂に上杉憲実追討の兵を差し向けました。

この事態に、室町幕府は足利持氏討伐を決定。上杉憲実に関東管領に復職させ、足利持氏を討伐するよう命じました。上杉憲実は渋々従いましたが、、、足利持氏は人望が薄かったのか、翌年には乱は収束しました。上杉憲実は自分を討とうとした足利持氏の助命嘆願を、何度も何度も幕府に願い出たそうです。しかし、幕府には聞き入れられず、逆に足利持氏を討つよう命じられました。上杉憲実は仕方なく幽閉先の永安寺を攻め、足利持氏とその子・足利義久は自害して果てました。