忍城/埼玉県行田市 | なぽのブログ

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お休みヒマだ~、どこ行こう?
・・・そうだ、お城!で始まった城跡巡り。
ふらっと訪ねた城跡を紹介します。


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続日本100名城スタンプについて追記しました(2018年5月13日)
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忍城は行田市役所周辺にありました。
訪問日は2013年10月12日です。

忍城/鳥瞰図
▲忍城鳥瞰図

忍城は「浮き城」とも呼ばれ、沼地に浮かぶ島を橋でつないでいました。
その様子がわかり易いのがこの図です。
この鳥瞰図は、国道125号を挟んで真正面にある諏訪神社にあります^^

忍城/摸擬御三階櫓
▲模擬御三階櫓

「忍城」というと、これをイメージする方が多いのでは?
お城=天守風の建物、はおいらも昔はそうでした。
本丸跡の郷土史料館にあります。

天守っぽいですが、模擬の御三階櫓です。
「天守」と「御三階櫓」は何が違う?・・・

呼び方でしょうか。
江戸時代は幕府に遠慮してこのように呼んでいたそうです。
お城のシンボル的なものとして、財政に余裕のある藩は建てていました。

「模擬」と書いたのは、かつて忍城にあったものとは異なるからです。
忍城の御三階櫓は、鳥瞰図によると三の丸にありました。

忍城/伝・進修館の門
▲伝・進修館の門

本丸をウロウロしていると、色んな物を見つけることができます。
まずは第2駐車場のすぐ南にあるこの門。
江戸時代の藩校・進修館のものと伝わる門です。
藩校の門・・・ということは、本丸にはありませんよね。
元々は何処にあったんでしょう?w

忍城/本丸の土塁
▲本丸の土塁

上の門をくぐると、左右に土塁が現れます。
かなり改変されているようなので、どこまで遺構なのかわかりませんが・・・
「空き地」だった本丸に、狭間のある城壁があったかどうかはわかりません。

忍城/城門
▲模擬御三階櫓脇にある城門

模擬御三階櫓の脇にはとても立派な城門があります。
この門の名前がわからないのですが・・・
鳥瞰図にも描かれていない所を見ると、こちらも模擬なのかもしれません。
お城のイメージで郷土史料館を造ったからでしょうかねw

忍城/諏訪神社
▲諏訪神社

国道125号を挟んで、郷土史料館の正面に諏訪神社があります。
諏訪曲輪の跡で、原型を留めているのはここだけらしいです。
一番上に貼った鳥瞰図は、この鳥居の脇にあります。

忍城/諏訪神社の周囲
▲諏訪神社の周囲

当時の曲輪、ということでウロウロしたのですがよくわからずあせる
神社の周囲を囲むこの細い水路が堀の名残でしょうか。

忍城/水城公園
▲水城公園

忍城跡の南には、水城公園があります。
ここは忍城の外堀の跡らしいのですが・・・広いw
お城の周りがこんな感じだと、大軍で一気に押し潰す力攻めはできませんね^-^

忍城/丸墓山古墳
▲丸墓山古墳

忍城から南東へ約3km離れた所に埼玉(さきたま)古墳群があります。
その中の1つが丸墓山古墳です。
説明文によると、円墳としては日本最大だそうです。
行田市で一番高い所だそうで、忍城攻めの時に石田三成が陣を敷きました。
古墳の手前の道は、水攻めのために築いた石田堤の一部だそうです。

忍城/丸墓山古墳からの眺め
▲丸墓山古墳から見た忍城

そんな高そうに見えなかった丸墓山古墳ですが、眺めは山そのものでした。
こうやって見ると、忍城の周りは田んぼだらけですね^^

忍城/石田堤
▲石田堤

そして、最後は石田堤です。
石田三成は忍城を水攻めにするため、長大な堤を築きました。
その総延長は28kmもありますが、何とこれをたった5日で仕上げたそうです。
憎まれ役であることが多い三成ですが、仕事はめちゃくちゃ速いですね!

大部分は破壊されていますが、一部はとても良い状態で残されています。
下の地図では下の方ですが、道沿いに土盛りが続いています。
忍城探訪の際はぜひとも立ち寄りたい所です^^


◆歴史(推測だらけ)◆

1478年までに成田正等が築いたとされます。

年代的には古河公方と山内上杉氏とが20年来の戦をしていた頃です。当時、成田氏は古河公方に味方しており、上杉方の忍氏を滅ぼしたのはそのためだと思います。1478年、両家が和睦した後、成田氏は長尾景春の乱で景春方として活動しました。そのため、乱の鎮圧をしていた扇谷上杉軍が忍城を包囲します。1479年、成田正等は長尾景春と対立していた長尾忠景の子・顕泰を養子にすることで和睦しました。

1480年、成田顕泰が家督を継ぎました

成田顕泰は山内上杉方として行動します。血縁からして当然ですがw成田顕泰は忍城よりも岩附城に居ることが多かったようです。岩附城は太田道灌が築いたという説と、成田正等が築いたという説があります。岩附城は沼に浮かぶ島を橋でつないでおり、構造が忍城とそっくりです。私は成田氏築城説に1票です(´ー`)ノ⌒○

1510年から1512年に起きた永正の乱では、成田顕泰は上杉顕実に味方しました。上杉顕実は古河公方・足利政氏の弟です。成田氏は古河公方とも関係が近いのでなおさらですねwこの戦いは上杉憲房が勝利し、以後成田氏は上杉憲房に従いました。成田顕泰は1524年に没します。子の成田親泰は生涯山内上杉方として行動し、1545年に没しました。

跡を継いだ成田長泰の去就は、しばらくはよくわかりませんあせる家督を継いですぐ、河越夜戦がありました。おそらく開戦時は山内上杉方であったと思われますが・・・。戦後、松山城も後北条方となりました。この時に後北条氏に降っていなければ、忍城が最前線となります。北条氏康に忍城を攻められた時には撃退しています。

しかし、1553年頃には山内上杉憲政が平井城から追われています。すぐ北の深谷上杉氏も後北条氏に降っており、成田氏も同調したかもしれません。

1560年、長尾景虎(上杉謙信)が関東に出陣すると、成田長泰は上杉方につきました。しかし、鶴岡八幡宮での関東管領就任式で反目。長尾景虎(この時に上杉政虎と改名)が越後へ引き上げると、成田長泰は後北条氏に従いました。

1562年末、後北条・武田連合軍により松山城が包囲されました。上杉輝虎(上杉謙信)は雪の三国峠を強行軍で越えて救援に向かうのですが・・・。1563年2月、救援が間に合わず松山城が落城。

よっぽど悔しかったのか、上杉輝虎は成田長泰に八つ当たりします。まずは成田長泰の弟・小田朝興の騎西城を攻め落とし、忍城を攻めて成田長泰を降伏させました。この時、成田長泰は隠居させられ、成田氏長が家督を継ぎました。

1569年、上杉輝虎と北条氏政が同盟を結びました(越相同盟)。この時に成田氏は、後北条氏の傘下に帰参しています。

1572年1月、北条氏政が越相同盟を破棄し武田信玄と和睦

1574年、上杉謙信に攻められました

これは北条氏政が関宿城を攻めたことによります。関宿城は、当時の関東では唯一といってよい上杉方の城でした。上杉謙信は城主・簗田持助の救援依頼により出陣はしましたが、、、佐竹氏は出陣せず。関東で思うように味方が集まらない上杉謙信は、成田氏の領地でひと暴れしてみせたのです。しかし、状況が変わらないまま関宿城が落城。北条氏政との和睦の条件で、足利義氏を古河公方と認めざるを得ず、上杉謙信の関東での信望は地に墜ちました。

1590年、豊臣軍の石田三成により水攻めに遭いますが落城せず。

成田氏の当主・成田氏長は後北条方として小田原城に籠城していました。そのため、従兄弟の成田長親が城代として城を守りました。石田三成は丸墓山古墳に本陣を置き、総延長28kmに及ぶ石田堤をたった5日で築き上げました。この水攻めには石田三成自身は乗り気でなかったそうで、豊臣秀吉から何度も矢のような催促があったそうです。この戦を題材にした映画「のぼうの城」が2012年に上映されました^-^

1591年、徳川家康の4男・松平忠吉が忍城の主となる。
1639年、老中・阿部忠秋が城主となる。忠秋は城の拡張整備を行う。
1823年、阿部氏が白河に移り、松平忠堯が城主となる。
1871年、廃藩置県により、二の丸に忍県の県庁が置かれた。
1873年、廃城となり、城内の構造物はほとんどが破壊・撤去される。
1883年、士族の困窮対策として、堀の埋立てによる農地造成が始まる。
1949年、本丸跡に行田市本丸球場が造られる。
1964年、水城公園が開園。
1988年、球場跡に行田市郷土博物館が開館。シンボルとして御三階櫓が建てられました。

続日本100名城スタンプ設置場所
 行田市郷土博物館玄関(傘立ての脇)
 開いている時間 9時~16時半(入館は16時まで)
 お休み 月曜日(祝日の場合は開館)、
     祝日の翌日(土日の場合は開館)、
     第4金曜日、
     12月29日~1月3日
 入場料 一般200円、大学生・高校生100円、小中学生50円
 ※玄関にあるため無料で押せます

所在地:埼玉県行田市本丸

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